今宵逢う人みな美しき

綺麗なモブになりたいジャニオタの独り言

「少年たち そして、それから…」を見て

 

今年もこの季節がやってきた。秋の日生劇場。

そう、わたしの大好きな「少年たち」を観に。「少年たち」の生きる姿を見届けに。

 

これまで「少年たち Jail in the sky」を円盤で見て、「少年たち~Born Tomorrow~」は実際に観劇に行き、その後友人がたまたま「少年たち 格子無き牢獄」の円盤を持っているというのでそちらも見せてもらい…という流れで、近年のものは半分ほど見ることが出来ている。南の島とか危機一髪が見られてないので、早く少年たちの円盤BOXが欲しいですね…というところではあるのだが。

あと今年は舞台が始まる直前に、密やかに噂されていた映画化も検討されているという話もあったりして。少年たちがスクリーンで見られるように…?!と、既にわくわくしてしまった。

ていうか映画館なんかでやってしまったあかつきには通い詰めて自主公演開いちゃうよな(今でも開いてるけど)

 

とまあ、自主公演の話はおいといて。今年の「少年たち」の感想もまた、ここに記しておきたいと思う。

昨年と変わったところもあったが、変わらない部分もあった。その辺りの比較も含めてこの作品の感想と考察をまとめていきたいと思う。尚観劇は一回のみのため、作中における台詞や言い回しに細かい違いがあることはご容赦頂きたい。ニュアンスに変化がないよう注意を払って書いていく所存ではあるが、あまりにも違うと感じた場合はお気軽にお知らせ頂けたら、と思う。

また、以下の文章中で対立するグループを指す際に「Snow Man」と「SixTONES」の名称を使っていくが、これはあくまで便宜上分かりやすさを優先した書き方であることをご了承頂きたい。この物語の中には出てこない名称なので。

それではここから、今年の「少年たち」の顛末を書き残していく。以下が目次だ。

 

 

 「少年たち そして、それから…」

①「少年たち~Born Tomorrow~」との比較

②日記少年の存在と完全な日記少年ではなくなった京本

③入所理由まとめ

④就職先の変化とショーアップされた「少年たち」の意味

⑤ジェシーの死

⑥副題の「そして、それから…」の意味するものとは

⑦おわりに

 

 

  ①「少年たち~Born Tomorrow~」との比較

①の項目では、昨年の「少年たち~Born Tomorrow~」(以下BTと表記)と変化が無かった点について箇条書きでまとめていく。

 

・チームカラー

Snow Manはグリーン、SixTONESはオレンジ。昨年もそうであったが、Snow ManとSixTONESが少年たちに携わるようになった2015年からこのカラーは変わっていない。

ここについては昨年のBTのエントリでも書いたように、少年院内におけるこの二つのチームの対立がメインテーマとして扱われていないことを示していると思われ、今年の「少年たち」においてもその要素は変わっていないと考えられる。尚、鬱憤を晴らすための殴り合いの喧嘩は今年もあったが、やはり両チームを互いに貶めあうような喧嘩や小賢しい策略は見受けられなかった。

 

・看守の不在

今年も昨年に引き続き看守は声のみの出演で不在であった。また、BT同様看守はあまり厳しい存在ではなく、徹底して物語の主導権を握る中立者であり俯瞰者である。その姿は観客であるわたしたちと同じだと言ってもいいと思った。

姿の見えない看守によって入浴時間が長引いたSnow Manに対しては「一週間飯抜き」の懲罰を与えたが、SixTONESにそのような罰を与えるシーンは見受けられなかった。やはり今年も全ての権限を握っていながらも存在しないという、浮遊感の漂う不思議な存在であった。

 

・ジェシーと岩本の関係性

この二人の対立の模様も変わらない。以前一緒に音楽をやるために組んでいたが、ジェシーがデモ音源をどこかのプロデューサーや事務所に送り、それを隠していたことに腹を立てた岩本がユニット(バンド?)の解消を一方的に告げて縁遠くなるという流れはBTと変わらなかった。

細かいことを言えば、昨年キーアイテムとなっていたクロスのネックレスがなくなっていたり、看守から直接命令されたシーンは無かったものの、因縁の二人が因縁のボイラー室の掃除をしている場面はあった。また、BTでもこの二人がそれぞれのグループカラーを背景に歌のバトルをするシーンがあったが、今年はボイラー室で互いに嫌味を言いあいながら掃除をする場面に歌のシーンがある。やたらと背景の映像がリアルだったのが印象的だ。

 

・ジェシーの徴兵

今年も「少年たち」の肝となるジェシーの徴兵制度は存在する。BTの時と同じで、全員の出所が近付き俄かに浮き立つ少年院内で「ジェシーは母国の戦況が悪化したため、軍隊に入らなくてはならなくなった。よって一足先に出所を認める」という内容を看守から告げられる。

やはり今年も軍隊の配属先になる国名などの設定は明かされず、ぼんやりとしたままであった。

 

・深澤松村兄弟が戦場カメラマンになる

ここについては後述の項目でも触れていくが、この兄弟は今年も出所後に戦場カメラマンという職業を選択する。

BTでは田中・高地が戦争資料館の学芸員となったこともあり、計四名が戦争に関わる職業選択をしたことになるが、今作では深澤・松村兄弟のみが戦争に関わる職業を選択している。

 

・ジェシーが戦場で出会う伝令兵の少年

軍隊に入隊し、訓練を受けた後に戦場へと赴くジェシー。彼はたった一人で偵察部隊を任されるが、前線で出会ったのは自分よりもはるかに幼い少年だった…、という物語の筋書きに変化は無かった。

また、少年兵を見て心痛めたジェシーが彼を殺すことが出来なかった点もBTと比較して変化はない。

 

・「ジェシーが死ぬ」という事実

物語の後半でジェシーが命を落とす場面は昨年と変わらず、また戦場で敵に撃たれてほぼ即死であった点も変わらない。しかしながらその事実に変化はなくとも、そこに至るまでの過程やその後の様子については変化が見られたので、以下の考察ではそこに触れていく。

 

 

  ②日記少年の存在と完全な日記少年ではなくなった京本

今年の「少年たち」の上演が決定し、情報が公開されてしばらく経った頃に「東京B少年から岩崎大昇の出演が決定しました」というお知らせがあった。勿論その後出し形式でオタク界隈はざわついたが、わたしはそれよりも「一体どんな役で出るんだ?」という疑問を抱いた。BTを思い出してみるとどちらかのチームに入るのも非常に考えにくいし、かといってあれだけ幼い子を極悪看守に抜擢するとも思えない。果たして…?

 

幕が開けて、少年院内に収容されている少年たちがそれぞれ登場し、お決まりのナレーションや歌をバックに院内全員の鬱憤を晴らすべく全員が日々喧嘩に明け暮れる場面が展開される。そこへ「今日からここにやってきました!」ときらきらとした笑顔で周囲へ挨拶をする京本が現れ、彼はオレンジをチームカラーとするSixTONESサイドに受け入れられることとなる(比較的Snow Manとも仲良くやっていく様子も見受けられるが)。

SixTONESの面々と挨拶を済ませ、それなりに交流を持ち始めた頃、彼は少年院内でもう一人の少年と出会った。それが岩崎大昇演じる日記少年である。

ここでわたしは岩崎のことを「日記少年」という名前で紹介したが、この「日記少年」という存在は「少年たち」という作品におけるキーマンであるというのは最早言うまでもない。過去の「少年たち」でも少年院内で日記を綴る少年の存在は描かれており、Snow Man×SixTONESが主演の「少年たち」になるまでは、物語の最後で脱獄に失敗し犠牲となって死んでしまう存在でもあった(近年大阪は松竹座で上演されている「少年たち」における日記少年についてはこの目で目撃していないため、ここでの言及を控える)。が、①の項目にも書いたように、今年の「少年たち」における「少年の死」はジェシーが担っているので、今作でも日記少年が死ぬ場面は存在しない。

それは昨年も同様で、日記少年となった京本はジェシー・岩本の仲を取り持ち、また、出所後の少年たちをまとめる立ち位置にも就く。少年院内の新入りで日記を綴り少年院の歴史を語り継ぐ役割を担いながら、その命を落とすことはなかった。

 

では今年舞台上に登場した岩崎演じる日記少年の存在とは一体何なのか。

舞台に現れた岩崎は新入りである京本と会話をするのだが、彼はグリーンの服を着るSnow Manやオレンジの服を着るSixTONESとは違い、一人だけ赤いつなぎの囚人服を身にまとっていた。わたしはこの瞬間にあることを思い出して「まさかな…」と思ったが、その予感は物語が進んだところで的中したことを知る。

現在のA.B.C-ZとジャニーズWESTが以前に演じてい「少年たち Jail in the sky」(以下Jailと表記)では、囚人番号がプリントされた赤いつなぎと青いつなぎが囚人服として起用されていた(現在のKis-My-Ft2が舞台に立っていた時もこの二色のつなぎが囚人服として使われている)。そしてその際に日記少年を演じていたのは戸塚で、彼は物語の最後で仲間を全員脱獄させる為に自らが銃弾の犠牲となって死んでしまう。

ここで重要なのは、日記少年であった戸塚が"何色のつなぎを着用していたか"という点である。

もうここまで書けば何のことかお分かり頂けるだろう。そう、戸塚が着用していたつなぎの色は、赤。赤色のつなぎを着た日記少年は、かつてこの場所で仲間の為に命を落としたのだった。

そうなると岩崎がたった一人だけ着ている赤のつなぎのが一体何の意味を持つかなど明確だろう。この世にはもう存在していない、亡霊だ。彼はこの少年院で死んでしまった少年の幽霊なのだ。

 

岩崎と初めて顔を合わせた京本は何の違和感も感じずに岩崎との交流を図る。京本が岩崎に挨拶をした際、岩崎から直接「この日記を君にあげるよ。この日記にはここでの記録が綴ってある。良かったら君にもこの日記を書いてほしい」といった言伝と共に、途中まで綴られた日記を手渡される。京本は見慣れない赤いつなぎの囚人服には違和感を覚えたものの、岩崎がこの世の者でないことには気が付かなかった。

そしてある時、Snow Manと少年院内での掃除か書庫等の整理を命じられた際、岩本が「この少年院の歴史が詰まっているアルバムを見つけた」と言って、京本に一冊のアルバムを手渡す。そこには戦争があった時代を潜り抜けてきた歴史と共に、この少年院内で生活していた若き少年たちの姿があった。そしてここでようやく京本は岩崎がここにかつていた少年たちであったことを知ったのだ。以下、ニュアンスではあるが、劇中における京本と岩本の会話だ。

 

「俺、ここでこいつに会ったよ」

「馬鹿。これいつのアルバムだと思ってんだよ。何十年も前の囚人だぞ」

「でも、本当に会ったんだよ。ここに来た日に会ったんだ」

「嘘だろ?だってこれ、見ろよ」

「集団脱獄未遂事件…?」

「その時に一人死者が出てる。…それが、こいつだな」

(岩崎による当時の脱獄回想シーン)

「でも…ここに来た日に…確かに」

「…そうか。多分そいつは、寂しかったんだろうな。ひとりで」

 

恥ずかしながら、わたしはここで一度涙が止まらなくなった。最初に赤いつなぎを見た瞬間に「まさか、あの時の少年では」と思っていただけに、その予感が当たってしまって鳥肌も涙も止まらなかった。

 

BTでも今作でも、命を落とすのは日記少年ではなく若くして戦争に駆り出されたジェシーだ。それはSnow ManとSixTONESが主演を務めるようになってから変わった作品の要点でもある。

 

それまでの少年たちでは正義も何もない絶対的な悪(=看守長)がただただ己の欲求と快楽の為だけに権力を行使して抑圧をする少年院内における闘争と脱獄、そして少年たちの若さがメインモチーフであった。彼らの人生の全ては檻の中にしかなく、檻の中に入るまでにどう生きてきたか、その場所でどう生きるか、どう足掻くか、そして「悪」のレッテルを貼られた自分達が「絶対悪」からどうやって解放されるかが作品内における重要な要素であった。

全ての原点である1969年12月上演のフォーリーブスによる「少年たち」と比べてみても、根本的な要素については大きな変化はない。少年院からの脱獄のラストシーンで、たった一人だけ「脱獄したい」よりも「みんなと離れ離れになるのがさみしい」と感じていた少年が命を落とす筋書きは変わらなかった。

確かに初演の流れを汲むならば、恐らくSnow ManとSixTONESがやるようになってからの「少年たち」よりもそれ以前のものの方が「少年たち」という作品の意図には忠実だったように思える。"全て"を無くした少年が少年院で出会った仲間と共に未来を選択した時点で、やっと手に入れた"新しい全て"を大好きな仲間の為に失うという、絶望と希望を一つの器に入れて形にした作品だからだ。それこそアンダーグラウンド文化の真髄であると言えよう。

 

一方Snow ManとSixTONESが演る「少年たち」のメインテーマはそれとは違う。脱獄もしないし、誰一人あの場所でいずれ失う"新しい全て"を手に入れてはいない。あの場所での出会いや経験を通して「これからどう生きていこう」かについての未来の話をしていると言った方が的確だろう。

すると、日記少年である京本が死ぬ必要性が皆無であるということは必然的に分かる。日記少年の死、即ちそれは絶望と希望の象徴。しかしジェシーの死というのは絶望でしかない。そもそもジェシーは戦場に行ってから新たに何か大切なものを得た訳ではないのだ。この段階で"新しい全て"を手にしていないことがわかる。

するとそれまであの場所で日記少年の役割を担っていた、言わばBTではより中途半端な日記少年だった京本は今回の作品で「過去と日記少年」と「今の少年院とこれから」を繋ぐ架け橋的存在になったと言える。勿論、岩本とジェシーの友情を再び繋ごうとする存在であったことも言うまでもない。

 

見方によっては今年の方がより中途半端にも見えるだろう。しかしながらより明確な架け橋的存在の立ち位置を確立したのは、昨年よりも舞台の主題性を強めた効果があったように思える。

京本という少年は、あの日記帳をかつての少年・岩崎から受け継ぎ、それを戦地へ赴くジェシーを心配する弟へと渡るまでの架け橋を担ったのだ。それはこの舞台、ひいてはジャニーズエンターテイメントの核でもある「歴史の継承」だったと言わざるを得ない。

 

 

  ③入所理由まとめ

昨年の「少年たち」のエントリでも触れているが、この舞台において入所理由はそれほど重視されていない。それはこの作品の主題が少年院というスケールに収まらず、「過去を生きてきたこと」より、「今どう生きているか」より、「未来をどう生きるべきか」「未来をどうするべきか」に主題がおかれているからだ、といった趣旨の話はBTのエントリでもした。

それについては今年も大きな変化が無かったように感じたし、むしろ昨年よりもその「未来」に対する思いや扱いは比重が大きかったように思える。

そして今年の「少年たち」で分かった入所理由をまとめたのが以下だ。

 

・佐久間、深澤、渡辺→殺人もしくは殺人未遂

・宮館→警察官に対する暴力を振るった為公務執行妨害

・阿部「頭が良すぎたんだ。周りよりもキレすぎた…」→直接的な入所理由は明かされず

・入所理由を問われた岩本「…お前には関係ねぇだろ」→阿部に同じ

 

なんと驚いたことに、たったこれだけだ。Snow Manですら入所理由が全て明らかになっていないのに、SixTONESに関しては誰一人明かされないまま話が進む。昨年はジェシーと京本についてのぼんやりとした言及はあったが、今年は一切無かった。

個人的にはここまで削られてしまうのはいかがなものなのだろう?と思ってしまう。好みの話にもなってしまうのだが、未来に重点を置きすぎる余り、登場人物それぞれの人間性を深く掘り下げられないことに少し物足りなさを感じた。もしもここでもう少し話があったら、これ以降の「未来」を思って生きる彼らにもっと共感できたような気がする。

 

 

  ④就職先の変化とショーアップされた「少年たち」の意味

BTと比べてもっとも変化があった点と言えば、間違いなくこの二つの要素であったと言い切ることが出来る。順に一つずつ追っていきたい。

 

まず、出所後の就職先について。

冒頭でも少し触れたが、昨年と同じ仕事に就いたのは深澤松村兄弟のみ。その他を含めてまとめたものが以下だ。

 

・深澤、松村→戦場カメラマン

・渡辺、田中→大道芸人

・阿部、佐久間、高地→ストリートアーティスト

・宮館、森本→エアリアルパフォーマー

・岩本、京本→不明

・ジェシー→軍人

 

こう見ていただければ明らかなのだが、BTではざっくり半数ずつで戦争関連(深澤、松村、高地、田中、ジェシー)か、エンターテイメント関連(佐久間、阿部、渡辺、京本、宮館、森本(岩本))に就職していたのに比べ、今年は圧倒的にエンターテイメント関連への就職が増えている。京本と岩本については何の仕事と明言されることはなかったが、戦争関連の仕事ではなさそうだった。無職っぽい

作品の性質上、戦地に行ってしまったジェシーとの懸け橋がどうしても必要なので深澤松村兄弟が戦場カメラマンになるのは従来と変更がないが、その他はBTの時よりもより人前に出ることを重要視したエンターテイナーになっているなと感じた。BTではライブハウス経営やプロデューサー等の裏方的な職業があったが、今年は見事に全員人前でパフォーマンスをする仕事である。

この布陣は正直想定外だった。もっとバランス良く分かれるかと思いきや、残された面々はたった二人を除いて表現者の道に進んでいる。更に劇中でそれぞれの職業をテーマに様々なパフォーマンスを見せてくれるが、この時間こそが今年最大の変化があった部分、ショーアップされた「少年たち」なのだ。

 

照明が控えめな暗い舞台上で歌い踊る深澤、松村兄弟が表現していたものは、一口に平和とは言えない。戦場カメラマンという職業を選んだ二人だからこそ見えている「悲しみ」と「平和への希望」という対のテーマがよく表されていると思った。曲調や照明、バックスクリーンの映像から滲み出る陰りはあるものの、影絵や写真等で映し出されたものは、ともすれば気付かないような、忘れてしまうかもしれないような、小さな幸せばかりだった。

 

ストリートアーティストになった阿部、佐久間、高地が描いた絵は平和への訴えだ。

真ん中のピースマークはその名の通り平和を訴えるもので、平和運動や反戦運動の際にシンボルとして扱われる。鳩は平和の象徴、ガーベラの花言葉は希望、地球は自分たちが住む場所全体を指している。そこに踊るのはカラフルな「Happy」「Freedom」「Peace」の文字。どこからどう見ても平和への前向きな訴えを全面に出したアートだった。

 

大道芸人とエアリアルパフォーマーに就職した四人が見せてくれたものは、もうシンプルにエンターテイメントでしかなかった。人前に立ち、その身体をいっぱいに使ってパフォーマンスを見せて、目の前にいる観客を楽しませる。そういった単純な絡繰りは、絶望に塗れた世界を救う。例えそれがその日のおまんまにならなくても、人の心を挫けさせることはない。そういったパフォーマンスやエンターテイナーとしての核心を表現した演出であったのだな、と感じられた。

 

ここまで各自の就職先の変化とその後をまとめたが、ここ以外でも今年はやたらとショーアップされた場面が多い。それこそ少年院に全員が収容されていた頃も、グループのオリジナル曲をやったり、ハットなどの小道具を使って舞台上にいたはずの囚人たちの雰囲気をがらっと変えて歌う場面もあった。最初こそそのテンポ感についていけず、正直頭の上に疑問符が浮かんだままの観劇になってしまった。

檻の中で過去を語ったジェシーがぽそりと「また歌いたいなぁ」とこぼせば、京本が「じゃあ一緒に歌おうよ!僕、歌うの好きなんだ」と返して、気が付いたら「Beautiful Life」が流れている。その感じがどうにもむず痒く、落ち着かなかった。他の場面も同じだ。ジェシーの弟役のヴァサイェガ渉くんらが出てきて踊った時も何となく合わない感じがしていた。

その辺りを汲んで考えてみると、今年の「少年たち」における演劇の要素は減ったと言える。中身の濃さで言うところの"質量"は変わらないのだが、"容量"は減ったとでも言うべきか。

 

この作品におけるショーアップ要素に関しては、好みが分かれると思う。わたしは無い方がいいと思った。全員の出所後にそういった場面が増えるならともかく、前半の少年院時代でこの要素が矢鱈滅多に入ると、どうにもテンポと雰囲気が崩れる。ショーと演じる部分が存在することによって緩急がついて面白さは増えるものの、それが前半に必要だったかと言われるとそうでもない。そのメリハリが「少年たち」に必要だったかと聞かれると素直に頷けないのが本音だ。ましてや少年院の中での鬱屈とした暮らしの中で?という疑問も残る。

寧ろ前半は「少年たち」における陰の部分をしっかりと演じ、後半の未来を描いたパートを中心にショーを入れた方が作品全体のバランスは良かったのではと思う。四年目のテコ入れかと思わざるを得ないが、作品のバランスが不安定になってしまっては元も子もない。毎日日替わりになっていた京本への挨拶程度の変化は「THE・ジャニーズ・エンターテイメント」そのものだったし、あれくらいのバランスが一番丁度いい。あれ以下でもダメだし、あれ以上でもダメ。そのバランスを大きく揺るがしたな、とは思った。

さて、「少年たち」という舞台作品をわたしの好みを前提に評価した場合は先述の通りだが、それでは今年の「少年たち」にショーアップが一切不要であったかと聞かれると、そうとも言い切れない。そこが今年の「少年たち」の評価の難しいところだなと思うのだ。

 

出所後の就職先について、わたしは「今年は圧倒的にエンターテイメント関連への就職が増えている」と記述した。それはこれまでの「少年たち」を踏まえても異例の演出であった。Snow ManとSixTONESの「少年たち」におけるメインテーマに"戦争"というワードが欠かせないにも関わらず、直接的に"戦争"に関わるのはジェシー、深澤、松村の三人だけで、他はエンターテイメントの世界でパフォーマーとして生きていく。それと同時に舞台上で繰り広げられるのは「ショー」のパートが大きく、また、それらは「少年たち」のブラッシュアップとしてわたし達に提案される。

 

「ショー」や「エンターテイメント」「アート」という存在は、人間の怒りや悲しみを表現するものでありながら、時にこの世に本当に存在するかも分からない希望や楽しみ、未来といったものを無限に訴えることの出来るツールでもある。今作におけるその存在は全て"希望"や"未来"といった前向きな要素で構成されていると考えるのが正しく、その陽の要素が今作の要であるのならば、ここまでつらつら書き連ねてきたブラッシュアップされたパフォーマンスやショーの存在理由は確かにあると言える。

JailともBTとも違う「未来への希望」という言葉が、今年の「少年たち」におけるショーの存在を肯定するのかもしれない。そしてそれこそが、ショーアップされた「少年たち」の持つ核だと思う。

そしてここから先については、副題を読み解く項目で再び触れたいと思う。

 

 

  ⑤ジェシーの死

今年もやはり、ジェシーは死んでしまう。遠い戦場で一人戦い、人を殺してこそ煌めく勲章に頬を歪め、その笑みは戦場に来た旧友を震えさせる。ここはBT同様、"戦争"という出来事が人間の全てを歪めるまでの流れがジェシーという一人の存在を通して描かれていた。

そしてまた、彼の死は「ジェシー」という一人の人間の死であり、それと同時に戦地で無数に喪われていく命の象徴であることに変わりはない。彼の死が持つ意味は昨年と概ね変化は無いと感じた。

 

今年ここに変化があったのは、彼を看取った友人たちの様子だ。BTでは学芸員と戦場カメラマンの計四人が手筈を整えて全員で戦場に行き、ジェシーを説得した上で彼の最期を看取る。がしかし、今年は戦場カメラマンの二人だけがジェシーの最期を看取った。

無論それは戦争に関する職業に就き、平和な日本と戦争の起きている海外、もっと範囲を特定して言えば、少年院を出た11人とジェシーを結ぶ懸け橋的存在が深澤松村兄弟の役割であったから、極めて自然な流れだったと言える。平和な国で暮らす若者は当然の様にまたあの頃のジェシーと会えると信じて、それぞれの道を生きているのだから。

しかし戦場で彼の姿を見たのはたった二人だけ。二人の旧友が看取ってくれただけ贅沢だったと言うしかないのだろうか。誰にも看取ってもらえない内に命が散ってしまう兵士も沢山いたのだろうから。

 

個人的な感想をここでは少しお話ししたい。

しつこいようだが、この場面でジェシーを看取るのは深澤松村兄弟である。ジェシーと元々同じチームだったのは松村のみで、深澤は対立していたチームのメンバーであった。それに加えて、この兄弟の弟は松村。このことを踏まえてジェシーを戦場で発見して看取るまでを見ると、とても辛い。そうさせるのは、確実に松村北斗の演技の凄まじさだったと言える。

自担なので多少贔屓目なところはあるのかもしれない。そう自覚しつつも、今年のこの場面の「ジェシー!!おい!!ジェシー!!」という叫び声はあまりにも辛くて、痛くて、鋭くて、生きていて、それを聞いた瞬間に一気に涙が零れ落ちた。紛れもなく彼の発した言葉はわたしの心臓を貫いて涙を引き出したのだった。

舞台は射撃されたのをきっかけに暗転するのだが、撃たれたジェシーの近くへ彼が駆け寄ろうとするのが暗い舞台の上に見えた。見えなかったのに、見えた。ジェシーを呼ぶ彼の声だけが明確な力を以てして舞台の上に生きていた。同じグループだったから、同じ時間を過ごしたから、同じ笑顔を浮かべたから、ここにいない四人も含めての六人での時間と記憶があったから、ここでの「ジェシー!!」という叫び声は悲痛という名前を以て命を宿した。「危ないからやめろ!離れろって!!」という兄の制止も聞かずに「ジェシー!!ジェシー!!」と叫び続けた彼の言葉には、消え入る語尾に至るまで尖った鋭い悲しみがずっと存在していて、それはわたしの心臓までをも貫いたのだった。

ここまで書いても、きっとあの舞台上に生きていた彼の言葉の凄絶さは伝わらない。語彙力の問題云々ではなく、こればかりは舞台の中で作品の中で生きている彼を目撃しない限り、その皮膚でその鼓膜でその網膜で感じることが出来ないのだ。

ラストシーンの手紙に対する言葉も同じだ。たった一言「助けてやれなくてごめんな、ジェシー…」と言ったその言葉尻に宿った生命は、あまりにも悲しいものだった。ジェシーの死を目撃しているからこそ、誰のどの言葉よりも涙を誘うものだったと思う。

「坂道のアポロン」があったとはいえ、しばらく見なかった間にこんなにも上手くなったんだなぁ、と月並みな感想を抱きながらはらはらと涙を流してしまった。自分が好きな人のこの演技を見られただけでも、個人的には価値のある時間だった。

 

 

  ⑥副題の「そして、それから…」の意味するものとは

BTでも副題について触れたが、今作でも勿論そこには触れておきたい。

今年の副題は「そして、それから…」。この言葉に一体どんな意味が込められているのだろうということを念頭に置きながらの観劇であった。

 

昨年の舞台を見てわたしは「今と自己の葛藤から未来に向き合う少年たち」と評した。それまでの「少年たち」が過去に犯した犯罪やレッテルといったものと、今生きているこの瞬間に得た極めて鮮度の高い希望、その両者を以てして今に向き合ってもがいて生きる姿を描いたものなら、BTはもう少し未来を見ていたものだったと言える。明日というもっとも近しい未来を生きることの意味を、今自分がこの肌で感じることのできない遠い場所で喪われゆく無数の生命を透かして見つめていた。

その二点を手元に置いたまま今年の「少年たち」をどう評するのかと聞かれたら、わたしは「今自分が生きているこの瞬間に明るい『未来』を夢見て希望を抱こうとする少年たち」と答えるだろう。

はっきり言って、従来の作品と毛色が違いすぎるのだ。それが良いことか悪いことなのかはまた別問題だとしても、この作品はとても希望的で、夢のようでありながら現実的だったと言える。BTと比べてみても、「明日」という時間軸に対する感覚は、光り輝く眩しいものであったと思う。勿論そこに戦争による友人の死という陰が存在したことも忘れてはならないのだが。

 

先述にあったショーアップされた「少年たち」の意味も、ここに大きく関わってくる。戦争を知って学んで考えることの重要性は無論言うまでもないし、それをBTや昨年の地方公演(「少年たち LIVE」)でも散々訴えてきた。でも今年は少し違う。

今年の「少年たち」ではそれよりも、平和な国に住む自分達に今何が出来るのか、これからの為に何が出来るのか、エンターテイメントやアートといった手段で平和な未来の為に何かできることがあるのではないか、という主題性が大きかったように思う。(それよりもという乱暴な言い方は良くはないが、この場合これを持ち出す他ないので、あまり曲解せずに受け止めて欲しい)

ジャニーズのアイドルとしてステージに立つ彼らだからこそ、このメッセージ性は現実味を帯びてくる。彼らなりに学んで考えて、その上で自分達がやるべきこととは、という覚悟のようなものを少年たちから感じた。去年の上演から一年が経って、実際にアイドルとして活動してきた彼らが得たものが確実に還元されていたのだろうな、という感覚すら覚えた。これは贔屓目が過ぎるのだろうか。だとしたら、許して欲しい。

 

Jailでは「今」を、BTでは「明日」を、「そして、これから…」では「未来」を。それぞれの作品でそれぞれの対象の時間軸を明確に見据えて、少年たちは必死に生きることを考えていたのだなと思った。そこにいつでも、希望を見出そうとして。

今日一日が終わりを告げると当たり前のようにやってくる「明日」に焦点が当たっているのではなく、"それから"という、もっと遠くて不確かで、この手で掴めるかどうかその保証すらない時間が彼らの思う「未来」なのだろう。その差分はともすれば零してしまうものだと感じたし、最後まで観て演出を拾って分析して、やっとしっくりきた答えのように思える。

 

 

  ⑦おわりに

去年と同様に"戦争"をメインテーマに据え置きながら、昨年とは全く違う作品を見たような感覚であった。個人的には去年の方がより「少年たち」に近いものであったし、もっと言ってしまえば、円盤で見ただけにすぎないJailこそ「少年たち」の本流に近いものだと思った。

アングラな演劇作品を痛烈なまでに生で感じて生きてきた訳ではなく、その端っこを少し齧りながら生きてきた人間の戯言だと言われればそれまでになってしまうのだが、やはり原点にあるものがあるものなので、そこから離れすぎてしまうと「なんだかなあ」と思わざるを得ない。伝統的な歌舞伎の演目のように定型を受け継ぐ文化もあるとは思うのだが、とこぼしてしまうのは、観客として我儘なのかもしれない。能だって歌舞伎だってその時代性に合わせて破壊と創造を繰り返してきたことは分かっていても、やはり自分が愛したものがあまりに形を変えて同じ名前で出てくると、少しばかりの寂しさはある。

今年の「少年たち」で訴えたかったものは、それはそれとしてきちんと受け取れたつもりだ。でもそこに「絶望と希望」は同居していなかった。その感覚はやはり、寂しい以外の言葉で表現は出来ないだろう。今作のメッセージがどんなにか明るいものであったとしても、それはもう「少年たち」という皮膚組織の下に流れている血とは違う。本来流れていたはずの暗く重く煌めくどろどろとした血ではないのだ。

 

しかしこれがジャニーズの舞台作品における破壊と創造であるのなら、わたしはこの形を「少年たち そして、それから…」として受け入れようと思う。…と、ここに書いておきたい。こうでもしないと、過去を回顧するだけの老害に自分がなってしまいそうで怖いからだ。受け入れられない程の嫌悪感はないし、かといって極上なまでに愛せる自信もない。だから、受け入れようと思う、という意思表示に留めておく。

そしてそこに「四年目だから、この舞台で伝えたいことをどうやって表現していこう」という葛藤や迷いのようなものがあったであろうことも、ちゃんと覚えておきたい。我儘を言えば、それぞれが自分の名前を使って演じた「存在していないはずの仮初の自分」という役を通じて感じたことや、個々の役に対する思い、その役作りといった深い話も聞いてはみたかった。そしてもっともっと、あの舞台で生きていた12人の少年たちを愛したかった。

…ここを深堀りしきれないのが、この舞台の悔しいところでもある。

 

来年には演者が変わっているかもしれない。だとしても、わたしはまだまだこの舞台を目撃したい。この「少年たち」という作品を通して生きて死んでいく少年たちの姿をまだまだこの目で見たいのだ。

来年はどんな変化がもたらされるのであろう。また来年の秋に日生劇場へ足を運ぶことが出来るよう祈って、このエントリを〆たいと思う。

 

読んで頂き、有難うございました。

 

 

かすみ(@mist_storm_1723)