今宵逢う人みな美しき

綺麗なモブになりたいジャニオタの独り言

山田詠美「ぼくは勉強ができない」を読んで思うこと

 

今回はいつも書いてるようなジャニーズのことではなく、真面目に読書感想文的なもの(的なもの)を認めようと思い、キーボードを叩いています。別に普段が不真面目ということではないんですけどね。普段も至って真面目にジャニーズの話をしているんですけどね。

みんな、嵐とSexy ZoneとSixTONESをよろしくな。

 

さて、タイトルにもありますが、今回は山田詠美の著書である「ぼくは勉強ができない」についてお話しをしたいと思います。

普段は導入部分としてこのエントリを書くに至った顛末をさらっと書いているのですが、とにかく今回は

 

「この本に興味を持ってほしい!」

「この本を読んで!」

「わたしはこう思ってるから好き!」

 

という気持ちを精一杯お伝えしようと思います。この本は推理小説ではないので、中身のネタバレがあってどうこう…とは思いませんが、この本の中身に触れる上でストーリーについて詳しく解説する部分があることはご了承ください。もしもこの本を一読してからエントリを読むぞ!と思っている方がいらっしゃるなら、このページをお気に入りにいれるなりなんなりして、そっと画面を閉じて下さいね。

そしてこのエントリで一応ご紹介致しますと、現在文庫本として店頭に並んでいるのは、恐らく新潮文庫から出版されているもの文春文庫から出版されているものの二種類かと思われます。初めて読む方には新潮文庫版をおすすめしたいのですが、今一度読みたい、という方には文春文庫版をおすすめしたいです。なぜなら文春文庫版には「四半世紀後の秀美くん」という書き下ろし作品が掲載されているからです。

昔この本を読んだ懐かしさを片手に文春文庫版を開くと、ああ、懐かしい、久し振りね秀美くん、って気持ちになります。内容はややクロスオーバー的なものになっているので、苦手な方はあまり面白くはないかもしれませんが、わたしは気軽に楽しめるスピンオフ的な書き下ろし作品として読んでいます。

今回のエントリでは新潮文庫より発行されている平成22年6月10日39刷版を手元に置いて感想を認めたいと思います。まぁ例の如く軽い感想だけじゃないですけど。お付き合いください。

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

 

もくじ

 

 

  「ぼくは勉強ができない」を読む前に~基本情報まとめ~

著者は山田詠美(やまだ えいみ)。1959年(昭和34年)生まれの女性作家です。デビュー作は「ベッドタイムアイズ」で、この作品は文藝賞を受賞しています。現在彼女は芥川賞選考委員の一人ですが、このデビュー作も当時は芥川賞候補作として名乗りを上げました。この作品も機会があれば読んでみてください。暴力的なまでに情熱的な愛の物語です。

その後も「蝶々の纏足」や「風葬の教室」、「放課後の音符」「トラッシュ」「風味絶佳」などなど、他にも沢山の小説を書いています。彼女の作品はどれも好きですが、わたしは「風葬の教室」が特に好きです。

その沢山の小説の中から、1996年に出版(※文庫版)された「ぼくは勉強ができない」をこれから取り上げていきます。

 

「ぼくは勉強ができない」は9つの短編からなる短編集で、それぞれの初出は

 

ぼくは勉強ができない:「新潮」1991年5月号
あなたの高尚な悩み :「新潮」1991年7月号
雑音の順位     :「新潮」1991年9月号
健全な精神     :「新潮」1991年11月号
〇をつけよ     :「新潮」1992年1月号
時差ぼけ回復    :「新潮」1992年4月号
賢者の皮むき    :「新潮」1992年8月号
ぼくは勉強ができる :「新潮」1992年12月号
番外編・眠れる分度器:「文藝」1991年秋号、冬号

 

となっています(新潮文庫版巻末参考)。ハードカバー版が雑誌掲載終了の4ヶ月後である1993年3月に発行されており、その3年後に新潮文庫から文庫版がリリースされた、ということですね。

そしてその後増刷を重ね、2015年5月10日に文春文庫から「四半世紀後の秀美くん」という書き下ろし作品を掲載した「ぼくは勉強ができない」が出版されました。

 

と、ここをあまり長く書いても仕方がないので、この本に関する基本情報はこれくらいにしておきます。

ここまでは導入部分として読んでもらうとして、以下からが今回のエントリの本編となります。またいつも通り長々と書いていますので、よろしければお手元に本をご用意してゆっくり楽しんで頂けたらと思います。

 

 

   ぼくは勉強ができない

"勉強ができる"ということは、いいことだと思う。"勉強ができる"事実に裏付けられた実力もその人には存在するし、実際に話していると面白い人が多いのも本当だ。はっきり言って、あまりにも勉強ができない人とは話していて疲れることもある。そしてまた、わたしよりも遥かに勉強ができて頭がいい人は、わたしなぞと話している時に「こいつと話していると疲れるなァ」などと思ったりすることだろう。

しかし偏差値や試験の点数に裏付けられた"勉強ができる"という事実は、その人が「素晴らしい人」であることを保証する訳ではない。社会に出てから度々「勉強ができてもねぇ」という世間話をする大人を沢山見た。厳しいことを言えばその人たちはあまり勉強が出来なかった人たちばかりだったし、実際にそれが弊害となってコミュニケーションに支障をきたすことも多々あったから、わたしは時々心の中で「(負け犬の遠吠え)」などと悪態をついたりしていたが、その言葉は100%馬鹿にできたものではない。だって現実にそうなのだ。

 

この物語に登場する脇山のように勉強一筋で生きてきてしまうと、勉強が「できる」のか「できない」のかで人間性まで判断してしまうという判断基準が身についてしまうことがある。本人が強く志す何の目的がある訳でもなく、勉強しなさいと周りの大人に言われるがまま勉強をしてきて、「大学にいかないとろくな人間になれない(p22)」と教え込まれたことを妄信し、何の目的もないまま大学に入学して卒業して社会に出て行く。そうやって世間で幅を利かせている「人を蔑んだり、貶めたり(p24)」する大人たちが子供達に刷り込んだ"常識"を「何の疑問も持たない様子で(p27)」他人にぶつけることが、本当に正しい行動や選択だといえるのか。

本文中で、秀美が「ぼくは、小さな頃から、ぼくの身体を蝕もうとして執拗だった不快な言葉の群れを思い出した。片親だからねえ。母親がああだものねえ。家が貧しいものねえ。(p26)」と、自身の過去を振り返って、自分にぶつけられてきた否定の言葉を思い出す場面がある。ここで述べられているのは彼を取り巻く環境のことであって、決して彼自身の人間性に関するものではない。ないはずなのに、世間という厄介な存在は"常識"を振りかざして彼を「ろくな人間」ではないと決めつけてきた。

さあ果たしてこのやり方が、立派な大人になる為に必要なことなのだろうか。答えは自明である。否だ。わたしもそう思うし、本文中でも「けれど、脇山みたいに育ってしまったら何かがおしまいになるように思う。(p16)」という秀美の心情によってそのことは綴られている。

 

"勉強ができる"というのはいいことだ。だけど、それはカッコいい人間であるか否か、本文から表現を引っ張ってくるならば、「いい顔をしている(p15)」か否かを保証する判断基準にはならない。

不特定多数の多数派という矛盾した字面で構成された世間は、いつだって何かを物差しにして他人をはかりたがる。その時、相対的な基準になるものは確かに存在しているが、それで人間性を判断するにはあまりにも不確かだ。ましてや、勉強ができるか、できないか、なんて。

この話で取り上げられた物差しがたまたま「勉強」というものだっただけで、そのどうしようもない物差しはこの世の中に沢山あふれている。それは例えば片親に育てられたとか、結婚していないとか、貧乏だとか、子供がいないとか。「これをやっておけば」「これがあれば」「まともな大人になれる」「幸せになれる」という、自分を取り巻く周囲の人間たちが勝手に決めたひとつの下らない基準でしかない。そしてそれがその人を推し量る最善の判断基準かと言われたら、違う。わたしたちが他人を見定める時、もっときちんと見なくてはいけないところが沢山あるはずなのだ。

秀美はそれを心得ている。心得た上で、もっともっとその感覚を磨かなくてはならないとも感じている。そうしてそれが出来た時に初めて、自分も魅力ある「いい顔をしている」大人になれる時が来ることも分かっているのだ。

 

さて、はたしてただ"勉強ができる"ことは、人が一人の人間として生きていく上で最重要視されるべき事項であろうか。「いい顔をしている大人」になるために、全くもって不要と言えるものではないことは確かだ。だけどそれは決して一番大事なことではない。

どれだけ勉強が出来ても、「だって、つまんないんだもん。(p26)」という一言で、自分の中にある人間としての尊厳全てを否定されて何もかも失ったような気持ちになる程度に可視化された事実など、いざという時には「無いも同然(p26)」ではないだろうか。

 

そんな風に秀美自身が感じた「勉強」に対する疑問と、たとえその「勉強」が出来なくてもこれから自分は「いい顔をしている大人」になることだってできる、という希望的観測を含んだ「ぼくは勉強ができない」という気持ちがこの話のタイトルになったのではないかと思う。

 

 

  あなたの高尚な悩み

わたし自身もついつい植草のように頭で物事を考えすぎてしまう節がある。決して不幸を気取ったりはしないが、…と言い切りたいところだが、昔はどうであっただろう。もしかしたら、植草のことを秀美の様にからかったりできるような立場ではなかったかもしれない。

元々感情で生きている人間なので、ここまで頭でっかちではないものの、感情から発生したものを黙々と考え続けて論理立てて整理するのが好きなタイプではある。もしかしたら他人から見たらそれ自体が高尚な悩みに見えたりするのかもしれないな、などと考えたこともあった。でも多分、それは違ったのだろう。

 

人間身体があってこそというのは、当たり前なようで実は当たり前ではないのかもしれない。礼子のように頻繁に貧血に悩まされるようなことがあるとまた違うだろうが、植草のように大病もなく健康に生活している限りは実は気が付かないことなのだ。

秀美の言う空腹もここでは「体が感じること」ではあるが、痛みではない分植草の言うキョムだのフジョウリだのの不必要性を逆説的には感じにくい。空腹にキョムとフジョウリが役立たないことは分かっていても、礼子ほど強烈に「そんなもん、私の貧血には、ちっとも役に立ちゃしないって叫びたかったわ。生きていくのに必要な知恵と、味つけにしかならない知恵とは、まったく違うじゃない?(p42)」とは感じにくいだろう。

このことを的確に言い表しているのは、この話の核とも言える母親からの「体がなきゃ、頭だってなくなっちゃうのよ。頭だけで、人が存在するってこと有り得ないのよ。(p45)」という台詞だ。

「空腹と虚無という二つの言葉は、同じような意味合いを持ちながら、象と蟻くらいの隔たりがある。後者は常に前者に踏みつぶされる可能性を持っているのだ。(p43)」という本文からもそのことはわかる。体が本能的に感じる欲求や感覚の前では、頭の中でいつまでもいつまでもこねくり回しているだけの虚無は大した力を持たない。空腹のときに高尚な悩みにかまけていられるほど、人間の体は賢く出来ていないというもの。でも植草はそう感じることなく生きてきて、その上で虚無について気が付き考えてしまう自分は不幸だ…と気取っているにすぎない。本質的な肉体の存在すら忘れて。

だからこの話の冒頭でも「高尚な悩みにうつつを抜かしている奴がいる。(p30)」などと書かれてしまうのだ。「うつつを抜かす」という言葉は本来悪口に近いもので、「高尚」というのは誉め言葉のはずなのに、植草を表現するとき、その矛盾した言葉と言葉は乖離することなく存在する。

 

とはいえ、植草のような生き方も思春期特有の生き方のひとつだ。その後何かの経験があって考え方や感じ方を改められるなら、かわいいもの。

だって現に彼は足首を骨折した時、友人たちから好きな作家の話をしてみろだの、普段から口にしている虚無と退廃とアイデンティティと…などとからかわれたが、経験したことのない痛みに耐えかねてこう叫んでいる。「お願いだよお!! 早く保健室に連れてってくれ――!!(p48)」。彼がその痛みを忘れることなく、いつか感覚として頭と体の関係について理解出来たとき、高尚な悩みからは脱却できるのであろう。

まあ多分、それはわたしが大人になったからそう言えるだけである。周りにいる秀美や礼子からしたら、植草自身にとってどれだけ高尚な悩みだったとしてもそれは植草だけのものでしかなく、他人からしたら何の意味も持たない悩みでしかない、という風に感じるだろう。体よりも頭が先にある、「あなたの高尚な悩み」でしかないのだ。

 

 

  雑音の順位

この本の中で、何年経ってもなかなか自分に馴染まない一本。単純に自分の中での共感度が低いのだとわたしは思っている。

この話の中でそれぞれが出会う「雑音」は、実際の騒音であるものと心の中で響く騒音の二種類に分類される。飛行機の音や電車の音、隣の部屋から聞こえてくるセックスの声、それから桃子さんの部屋に響いていたドアを叩く音、これらは実際の騒音であった。しかし秀美がドアを叩いていた音は、実際の騒音であると同時に秀美の心の中に響く騒音の象徴であったと言える。恋人が知らない男と一緒にいるであろうという推測と人の気配を察知した秀美は、恐らくそれまで向き合った事のなかった嫉妬という感情に心を支配された。

 

この一つ前の話で「体があってこその頭」という話がありながら、今度はそれを易々と超越していく「心」の存在が描かれている。その証拠に「心の不安は、肉体なんぞにかまってはいられないのだ。(p60)」と秀美は語っており、それを参考にするなら「頭<体<心」という図式でひとつの肉体が支配されていることがもっとも人間的だという答えになる。

とすると、体で感じる実際の騒音より、心で感じる騒音の方がよほど堪えるものだったに違いない。この話では秀美だけがその心の騒音に悩まれされてクラスメイトに文句を言っているが、それは決して秀美に限ったことではない。多分わたしもそんな時に雑音の順位がころころ変わるクラスメイトが近くにいたら、嫌みの一つでも言いたくなってしまうだろう。お前にとっての騒音は日替わりで変わる程度のものなのか、と。

だが決して「感情の動き」自体が騒音なのではない。礼子から渡された本を読んでいるとき、感傷という感情は「決して嫌な音を立てないのだ。ひっそりと、ぼくの内側に広がるばかりなのだ。(p70)」と、秀美の心の中にゆっくりと広がっていった。嫉妬も感傷も、ぼくを楽しませるような感情ではなかったはずなのに。

 

ではその心の騒音である"嫉妬"という感情は、持たない方が良いのか。抱かない事のほうが正しいと言えるのか。

ここを考察する為には次の「健全な精神」について論じる必要性があるので、このまま次の話へと移行する。

 

 

  健全な精神

タイトルにもなっている「健全な精神」とは、一体どういうことか。世間一般で言うところの健全というものは、p81で教師が生徒を叱責している場面から想像がつく。肉体の健全性とは即ち健康であるが、精神の健全性とは清く正しく人に誇れるような人間である、ということなのだろう。

桜井先生の台詞に「世の中の仕組は、心身共に健康な人間にとても都合良く出来てる。健康な人間ばかりだと、社会は滑らかに動いて行くだろう(p83)」とある。全くその通りだ。今生きる全ての人間の体が健康で、精神も健康であったなら、社会はとてもスムーズに回っていく。しかしそれは仕事や社会に限った話でしかなく、この世の全てにそれがもしも当てはまったとしたら、そんなにつまらないことはない。芸術だって、生まれない。その前提を考慮した時、社会が評価する、つまり体育教師が言うような「健全な精神」が、全てにおいて正当性を主張できるのだろうか。

 

桃子さんに対して抱いた嫉妬心というものは、決してプラスの感情ではない。しかしその"嫉妬"という感情がない恋愛は、非常に合理的で「つまらない」のだ。

恋愛自体がそもそも人生における無駄でもあるという桜井先生の論(p84)は一理あるし、その無駄の中で世間一般が言う健全性だけを求めるのは決していいことのようには聞こえない。正しいことは素晴らしいことだが、恋愛において嫉妬や破壊的な情欲がないことは面白くないし、そもそもそれは人間の性質として正しいのか、とわたしは思う。相手のことが好きだから"嫉妬"するのであるし、相手のことが好きだから"滅茶苦茶にしたい"という欲望も沸くのである。これは極めて普通のことであって、寧ろ相手のことが好きなのにそういった感情が沸かないことの方が不健全ではないだろうか。

たとえそれが「社会的に不健全」だったとしても、「人間的には健全」であるとわたしは思うのだ。

 

真理が甘皮を押し上げる行為も、桃子さんに対する嫉妬の心も、秀美が直面した己の情けなさも、恋愛においては大変健全な行為や感情である。それを持たないことが決して正しい訳ではない。マイナスの感情をも抱くのが人間として普通のことである、というだけの話なのだ。

以前の秀美ならその感情を受け入れることは出来なかったし、それをそれとして処理することも出来なかった。がしかし、桃子さんとの一件、それにまつわる真理や桜井先生の言葉を受けて、精神の健全性とは何たるかについて考え直し「社会的に不健全ではあるが、人間的には健全」を理解し受け止めることが出来たのだと思う。「雑音の順位」と「健全な精神」の二編を通して成長するその秀美の姿こそ、この話の核心であるのだろう。

そういったすべての事柄を指して、「健全な精神」というタイトルがつけられたのだと思った。

 

 

  〇をつけよ

「しかしなあ。ああいう人達の方が多いんだぞ(p110)」という桜井先生の一言が印象的だ。この話の中で言うところのワイドショーのコメンテーターやそれを見て言葉を発するであろう世間、そして佐藤先生のように、他人を慮ることない自らの価値観(しかもそれすら他者によって確認作業が行われ構築されているもの)だけで、他人の在り方が正解か不正解かを決めようとする人間は、本当に呆れるくらいいる。

冒頭で扱われていた不倫や殺人だって、確かに法律の世界に入ったら共にアウトだ。ばつ印のつく話だ。でもそれに至るまでの事情を全て知らないのに、その事象全てにばつをつけるのはいかがなものかと思う。不倫にも殺人にもその事件が動き出した時の感情は確かに存在しているはずで、それを知ることのできない第三者である人間が勝手に論議してばつをつけてしまうというのは、果たして正しい行為なのか、とわたしも常々考えてしまう。これについては秀美も「明らかになっているのは、子供を殺したということだけで、そこに付随するあらゆるものは、何ひとつ明白ではないのだ。ぼくたちは、感想を述べることは出来る。けれど、それ以外のことに関しては権利を持たないのだ。(p105、106)」と述べている。

自分の価値観で物事を考えることなく、誰かが言っていたから正しいとか間違っているとかの印をつける行為は愚かだ。自らで物差しを作り出したわけでもないその価値観の正当性を得るために「合っているのかな」と他者を使って確認しようなど、言うまでもない。そうやって確立された価値観は本物なのだろうか。

 

秀美自身がこの価値観を得るまでに、幼い頃から他人に決め付けられてきた、という背景がある。片親だから、父親がいないから、女手ひとつで育てられた子供だから。だからこんなふうに捻くれた子供が、可哀相な子供が、とずっと言われ続けてきた。その実秀美自身の事など見てもいないというのに。そうやって自分の中の事情を何も知らないくせに「不幸な子供」としてばつ印をつけられた経験が、彼に「何も知らない第三者が丸やばつをつけるべきか否か」という疑念を抱かせ、その身勝手な疑念をまず破壊することで自己を証明し続けてきた。

わたしは彼のそういった気持ちや行動は正しいものだと思う。先ほども述べたが、その事象にまつわる全てを知ることが不可能なわたしが勝手に丸とかばつとかを他人につけることは、恐らくとても傲慢なことなのだと思う。感想を述べることと、正解か不正解を与えることの線引きはしなくてはいけない。

 

「共感はしなくてもいいから理解はする」というスタンスで日々生きているわたしは、「自分以外の誰かがどうしてそういうことをしたのか」ということについて自分が考え得る範囲で必死に思考を巡らせ、その上で「それならばわたしはこう思う」という話をするように心掛けている。たまにそれが伝わらない時もあるが、それでもわたしは「共感はしなくてもいいから理解はする」ように気を付けている。

本当ならばそれが当たり前の世の中であって欲しいのだが、なかなかそうもいかない。理解と共感は完璧なイコールである必要性はないのに、世の中の大半は理解と共感が常に100%同じものとして繋がっていないと安心出来ないし、それが自分の共感の範囲を超えたり、理解の範囲を超えたりしたときに拒絶反応を示す。理解出来なくても共感できる時はあるし、共感できなくても理解できる時はある。偶然にも理解と共感との両方ができる時もあるのに。

その感覚が乏しければ乏しい人間ほど、他人に丸やばつをつけたがるのかもしれない。しかしながらその行為は、他者を理解する気のない人間がしてよいことではないだろう。理解する気があったとて、良いことではない。

 

「十七年間のこんな短い人生の中で、もう既に何度か落胆しているのだ。(p108)」と書かれているように、佐藤先生との対立以前にも秀美は他人に対して落胆しているし、恐らく佐藤先生との対立を通して、そういった人間がこの世の中に多く存在することにまた彼は落胆してしまった。

落胆はしてしまったけれど、でも「ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない(p112)」「すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ。(p112)」と、自分の行く末に関して「こうありたい」という理想像は既に持っているのだ。十七歳の高校生がこの覚悟を腹に抱えているのだとしたら、わたしはそれで充分なように思う。それがp112にある桜井先生の言葉なのだろう。

反面教師的な考え方ではあるが、「〇をつけよ」というタイトルは、秀美が秀美自身に向けて強く思う言葉であり、また、この本を手に取ったわたし達への警鐘であるとわたしは思う。

 

 

  時差ぼけ回復

わたしは時差ぼけを体験したことがない。生まれてこの方海外に行ったことがないからだ。もっとも、片山の言う「時差」も上手に処理できてしまっている時の方が多いから、幸い時差ぼけに悩んだことはないのだ。

片山の言う「時差」というのは、一日二四時間を過ごす中に存在する「考える時間」のことなのだと思う。そもそも彼が言っていた一日二五時間理論というのは、実際に区分を設けられて存在している二四時間に単純に一時間足したわけではなく、二四時間分の時間が流れている中に存在するもう一つの一時間のことを指しているのだと思われる。

…というのを文にしても少々分かりにくいと思うので、簡単なものだが図を。多少比率が釣り合っていないが、そこはご愛嬌という事で許してほしい。

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下の二四時間は実際に世界共通で定められた時間軸で、赤で途切れ途切れに存在するのが「考える時間」の一時間である。実際は並行して進んでいるが、感覚と現実を擦り合わせると、この図式で一日が二五時間になるのではないかと、わたしは考える。

 

何のことかと思われることであろう。そんな時間が本当に存在するのか、と。

本文中で片山が生前「考えるとは、どういうことかってのを考えるんだよ(p127)」と言っていた場面がある。例えば誰かと楽しく話している間に流れている時間のことを、わたしたちは深く気にしたりはしないだろう。その会話が終わってから「楽しかった」で流すことが出来る。

だけど片山にはそれが出来なかった。その楽しい時間が終わってから、もしくはその時間の最中にも「自分は今楽しいのか」について考えてしまうのだ。本当にその時間が過ぎていく中で「楽しい」と思えていたのなら、そのままその時間のことは「楽しかった」で流してしまえばいいのに、彼にはそれをすることが出来なかった。一度「楽しかった」ことを確認して、自らの手で「楽しかったね」と考えることによって、彼の中の二四時間がやっと進むのだ。

この「時差」が一時間ならまだいい。いや、片山のような人間にとっては決していいとは言えないが、でもまだマシな方だと思う。きっと片山が自殺を決意する寸前はこの一時間が膨れあがって、二時間にも三時間にもなってしまっていたのだ。つまり、時差ぼけである。回復することの出来ない時差ぼけだ。

 

この感覚が本能的に理解出来ない人は、沢山いる。けれども、無意識のうちにこの感覚に苛まれている人も、確実にいる。片山は後者だったのだろう。

先ほども書いたように、この時差を人は日々の生活の中で何とはないタイミングで流している。起きたことをそのまま素直に受け止めさらりと流していくことで、誰かが感じ得る時差を気にすることなく生きているのだ。それが秀美の言うところの「まさに、ぼくの時間は流れて行くものだった(p129)」である。

けれど片山のように自分の手で過ぎた時間を流し、また来る時間を自分の手で流し、というように「自らの意志が、流していたもの(p129)」として処理し続けていたなら。そんなに辛いことはない。秀美の言うように「そよ風が、もし、彼の皮膚を心地良く撫で、そして、それを受け入れることが出来ていたなら(p132)」彼はもう少し楽に生きることが出来たのだろう。

 

体がなければ人は存在し得ない。その話は「あなたの高尚な悩み」でも出てきた。しかしこの話でもそれは共通で、片山のように頭でばかり物事を考えこんでしまっても生活や人生はままならない。多少の「時差」が生活の中で存在しても、春を告げる心地よい空気を疑うことなく受け入れて楽しむように、様々な物事を素直に受け入れることが出来ないとその「時差」に苦しむことになってしまう。

各々が抱える「時差」は確実にある。あるけれど、その「時差」を上手く処理できるか、もしくは「時差ぼけ回復」できるかどうかによって生きやすさや生き方は変わる。自分の中に「時差ぼけ」が発生した時、「回復」する方法を得ておくべきなのだ、ということが描かれているのだとわたしは思った。

 

 

  賢者の皮むき

十本ある短編の中で、最も好きな一本。何年経ってもこの話が大好きだ。

早速だがわたしは山野舞子が嫌いだ。どんなに美しくても、その裏にどんな自信があろうとも、わたしは彼女のように振舞う女のことが好きにはなれない。男受けを気にするのはその人の自由だと思っているので彼女の思想の理解は出来るが共感は一切出来ないし、ナチュラルにこだわるところも共感出来ない。作りこんで飾り立てた美しさの何がいけないのだ。大体、男からの視線を人より気にしていて敏感に感じ取るくせに、自分はそういった下心や色目とは無縁なんですの、と言いながら不思議そうな顔をしているのが一番気に食わない。お前が誰より知ってるくせに。

…と、山野舞子に対する嫌悪感は一生話せるのでこれくらいにしておくが、この話の核になるのも勿論その山野舞子だ。

 

秀美が舞子に抱いている嫌悪感の正体は「自然という媚(p138)」である。「自然という媚」というのは、「これは自然です」という顔をして作りこまれたものを指す。例えばそれはナチュラルメイクであり、日本式庭園である。どちらも丁寧に計算して作りこんでおきながら、人前に出すときは「自然の美しさなのです」という顔をする。それが悪いとは言わない。自然の美学、引き算の美学というものもあるだろう。けれど、本当は努力して作り上げた美を、作った自然を「自然に美しくなってしまったの」という風に人前に並べることは良いことなのだろうか。嘘だとは言わないが、それは真実なのか。

 

作中で舞子は秀美に対し「あんただって、私と一緒じゃない(p152)」と吐き捨てる場面がある。秀美が自分で自分のことを「自由だ」と評していることを指摘し、「それは優越感や特別感を抱えているのに知らないふりをしているだけだ」と言うのである。そしてそれは「誰もを魅了してしまう生まれながらの美少女である風に振舞う自分のことが好きな自分の心理と変わらない」と言う。

母親と祖父の教育のおかげか、秀美は比較的自由な思考を持ち視野の広い少年ではある。他者の心情を慮り、また、そこに存在する自分の気持ちを常に冷静に見つめ、目の前にある真実が嘘か誠か、正義か悪かを誰に作ってもらった物差しではなく自分の物差しで必ず計ろうとする。その姿勢が同級生らには「自由だ」と映っていることも、秀美は成長するその過程の中で知っているのだ。そしてその周囲からの言葉を「自分は自由だったのか」と受け入れたに違いない。しかしその「自由だと感じている」気持ちの隅っこには、「自分は自由に物事を考えられる人間なんだなぁ」という慢心に近い感情が蹲っている。

舞子が指しているのはその状況だ。他者からの「自由だ」と言う言葉を受け入れ、それが自分の看板であるという自覚を持つ姿勢が「あんただって、私と一緒じゃない」に繋がるのである。

舞子も周りから「美少女だ」と評価されていることを知っているし、それを自らの看板にしている。確かにこう並べてみると、他者からの言葉を受け取り自覚を持ち看板にしているというのは共通しているようにも見える。

 

しかしながらそこには明確な違いがある。

秀美のその自覚が生まれるまでの過程において、秀美は一度たりとも「自由であると評価されたいから自由に振る舞う」ということはしてこなかった。彼がしていたのはあくまで自分自身が今どうあるべきかを見極め続けていただけてあって、そこに「何かになりたい」という希望も努力も存在していなかった。

一方舞子はと言うと、「美少女であると評価されたい」という願望が大前提にある。その為に日々自分の見た目を磨き、完璧に見えないようにわざと小さなミスをおかし、自分の背後には美しく咲き誇る紫陽花を持ってくる。誰もが自分の思惑通りに自分を評価した時に、嬉しさに歪んだ口元を隠すことも忘れない。

さて。この二人の在り方は、果たして「同じ」だろうか。

 

舞子の「皮」は「自分の欲求をひた隠しにするもの」で、秀美の「皮」は「自分を評価した時に生じた慢心」である。二人とも自分に近付けていないという点では同じ立場に立たされるが、その原点にあるものが全く違う。

最早舞子に関しては、「皮」と呼ぶよりも「殻」と呼んだ方が適切なくらい秀美とは差異がある。がしかし、どこまで遡ることかは解らないが、恐らく舞子の「殻」のスタート地点も最初は「皮」であったはずだ。誰かに「可愛い、無垢な美少女」と評価された瞬間に彼女は自分が「無垢な美少女」になれると確信したから、彼女は周囲からの視線を意識して美少女になろうとした。しかしながらそれは元々ある自分の考えや感性、理想を追い求めて美少女になったのではなく、周りの声を自分の本質だと勘違いをしてしまったからで、それは決して自分ではない。このことを非難している会話が、p152の秀美が出した香水のたとえ話である。

舞子は「皆から可愛いと思われる美少女になりたい」という欲望から、秀美は「自分の在り方は自由である」という慢心から抜け出すために、皮むきが必要なのだ。厚さや過程の明確な違いはあれど、二人には皮むき行為が必要なのだと思う。

その皮むきを上手に出来るようになったとき、二人は本当の自分に、皮に包まれていない自分に邂逅することが出来るのだろうと思った。

 

 

  ぼくは勉強ができる

この本の表題にもなっている一本目の短編のタイトルと真逆の事を言っているタイトルであるのが印象的な作品。それはつまり、ここまでの八本を通して確実に何かが変化したことの象徴であるとも言えるだろう。

 

高校を選択した時よりも自らの手で選び取らなくてはいけないものの多さに悩む秀美。そんな彼の祖父が倒れたことの知らせをきっかけに、生き方や将来について考える場面で出てくる「煙」という表現がある。いつまでも元気でいると思っていた祖父が、実はいつ死んでしまってもおかしくはない年齢であるということに気が付いた時、秀美は「それは、大きな悲しみというより、ひとり分の空間が出来ることへの虚しさを呼び覚ます。(p167)」という表現で「この人を失う悲しみとは」ということを考えている。

その時秀美は強烈なまでに死というものを意識したのであろう。いずれ自分が死んだとき、この体という実体は失われる。体が無ければ何もできないのなら、いずれ消えてしまうことにエネルギーを費やしても無駄ではないのか?という疑問を抱いた(=将来を考え選択することに意味はあるのか?という疑問。何かを選び取らなければならないけど、選び取ること自体に疑問を感じている。つまりそれが「焦燥」)。

しかしそれに対する祖父の「死んだら消える物質的なものよりも煙の方が大切だし、それを煙(=消えるもの)と考えて嫌がるんじゃない」というメッセージを受けて、自らも煙を残すべきなのでは、その為に将来を選択するのはもしかしたらいい事だったりするのかもしれない、と思い直したのかなと感じる。その後の母親との靴のやり取りは、体という物質的なものにとらわれ過ぎていた自分を少し客観視できるようになったことの象徴だとも思った。

 

この話で特に好きな言葉がふたつある。ひとつは、祖父の「私は、貧乏という試練は甘んじて受けるが、貧乏くさいのはお断りなのだ(p168)」という言葉。もうひとつは、母親の「好きだったわ、勉強。秀美も好きになれば?知らないこと知るのって楽しいことよ(p164)」という言葉だ。わたしが生きていく上で持っているポリシーそのもので、この言葉を読むたびに背筋がしゃんとする。

そしてこの話の核心は、その母親の言葉にあると思う。数式が解けなくて点数がもらえなくても、化学式が組み立てられなくて赤いペンで丸を付けてもらなくても、成績表でオール5がとれなくても、それが「勉強ができない」ことの全てではないように思えるのだ。知らないことを知る、シンプルなこの言葉が、「勉強」のからくりの全てであるような気がする。

そう考えるとタイトルの「僕は勉強ができる」の「できる」というのが秀美の心境の変化であることは間違いない。そしてその「できる」という言葉は先述にある「勉強」という意味の「『勉強』ができるという秀美の自己主張」であり、「これからも『勉強』をすることが可能である」という未来への希望、そのふたつの意味を持つ「僕は勉強ができる」という言葉なのだと思った。

 

 

  番外編・眠れる分度器

久し振りにきちんと読み返してみると、奥村に悉く鳥肌が立つというか…こんなにも嫌悪感を感じさせるような人間であったか?と思わずにはいられない。「教師は、教え子の両親に敬われるべき(p183)」「教師と親とは、親しい関係、心地良い共犯の意識を持ち得る(p183)」「母親は、教師に救いを求めてこそ、その愛情が教室で還元されるのだ。(p183)」…同じページに書いてあるものだけでもこんなに嫌悪感を齎す存在だったか?と首を傾げてしまった。無論この後にもそのように嫌悪感を抱いたり、鳥肌が立ったり、怒りの余り涙を浮かべる部分もある。こんな大人がさも当然という顔をして教壇に立っていることを考えるだけでぞっとする。子供の存在を承認欲求の為に利用しようなど、浅ましいにも程があるだろう。

しかしながら世の中にはこういった大人の方が多いのも事実だ。誤解を恐れずにいうならば、「ぼくは勉強ができない」に登場した脇山のような人間が何かを疑うことなく大人になった時、きっと奥村のような人間になるのではないかと思う。いやはや、恐ろしい。

 

まさに秀美の原点というか、この幼少期ありにして少年期あり、という話だなと思う。

仁子の幼い頃からの教育もあって、秀美は自分の感じた事や疑問に思った事と常に向き合おうとしている姿勢は伺える。その基本姿勢は少年期も変わらず健在だが、小学生ということもありまだまだ粗削りな状態だなと思った。これはまぁ、時系列から考えて至極当たり前のことではあるのだが。

 

奥村との対立に関して秀美が「偉くもないのに、偉そうにしてる奴を馬鹿にするんだよ(p202)」と言うと、隆一郎は「馬鹿にしていることを相手に知らせようとはしないで、同情してあげたらどうだね。その方が、波風立てないし、相手にも効くぞ(p203)」と答える場面がある。これは確かに奥村のような人間には一理あるなと思った。思ったが、秀美はそのことを学んだ上で、その同情の使い方を間違えて他人(赤間)を傷つけてしまう。この図式は何とも切ないものがあるのだが、これこそ仁子が言っていた「後で苦労したっていいじゃない。痛い目にあわなきゃ学べないこと、沢山あるわ(p233)」という言葉の実態であるような気がする。

奥村の言うところの教育理念では、脇山に近しいような人間がきっと育つのだろう。つまらない人。真理がそう呟いて脇山を絶望させたのと同じで、バーで仁子に「子供は、つまらない人間を決して好きにならないわ。(p235)」と言われた奥村も少なからず考えるところはあったのではないか。自分がそういう大人に出会っていないから、自分が影響を受けていたのは同じくらいの年に生まれた人間だけだから、その唇を噛んだのだと思う。「自分が何者でもない(p236)」と再び思い知ったから。そしてこの後の仁子の「可哀相な人(p235)」が効果的に響いたのだ。隆一郎の言った通り。

 

赤間との関係性の変化がこの話の山場だが、秀美は「父親がいないこと」と「母親が世間一般で言うところの母親らしくないこと」を、赤間は「父親がいないこと」と「家庭がとても貧乏なこと」を、互いに「一個目の角(p238)」として既に持っているとした。それは誰かから受けた傷であり癒えたかもしれない傷跡だ。痛みだ。

同じ歳で両親が揃っていて普通以上の生活を送れる子供たちが持ちえないその傷を持っている二人は、他の子供が実感を伴て想像し得ない「他人の痛み」というものを一足早く想像して理解することが出来る。その数が増えるというのは、大人になっていく上で必要不可欠なことだと思う。そしてわたしが言うその数が増えるという言葉は、秀美の言う「痛い角が三つ集まるとまっすぐになれるんです。六つ集まったら、三百六十度になるんだ。まん丸です。もう痛い角は失くなってしまうんです。(p239)」と同義だ。

沢山の愛を享受し、沢山の傷を負った人間は、とてもやさしい。傷を負うことが人生においてプラスであるとまでは言わないが、そのことによって人が他人に優しくなるというのは紛れもない真実だと思う。

 

これから大きくなる子供たちは沢山の可能性を秘めている。三角の角を少しずつ集めていって、いずれ分度器にだってなれる。そのことの隠喩としての「眠れる分度器」というタイトルなのだろうと思う。

 

 

 

さて、いかがだったでしょう。感想文のような、論文のような。その間の子になってしまった文章かなとは思います。

エントリを書く為にこの本を何度も読み返している間、全体的な感覚は数年前と比べても大きく変化はないけれど、現在の心境や感覚に変化が起きていることを随所で感じられたりもしました。それは寂しくもあり、嬉しくもありという感情でした。

初めてこの本を読んだのが高校生の時で、何かに迷うたびにこの本を読み返しては救済を求めていたような気がします。そしてこれからもきっとその感覚は変わらずわたしの中に存在し続け、何かに迷ってしまった時、ボロボロになったこの本の頁をまた捲ることでしょう。

付箋だらけで、背表紙も擦り切れてしまっていて、売ろうと思ったらきっと一円の価値もないであろうこの本が、わたしにとっては値段のつけようもないくらい大切な本です。たった一冊でも、そんな風にわたしの人生に寄り添ってくれる本と出会えたことは、わたしにとってとても価値のあることです。

このエントリを通して、そんな気持ちが少しでも伝えられたらとても嬉しく思います。

 

 

かすみ(@mist_storm_1723)