今宵逢う人みな美しき

綺麗なモブになりたいジャニオタの独り言

「少年たち Jail in the sky」を見て

 

最初に記しておきたいことがみっつほどあります。

ひとつ、このエントリは大変長いものになっています。(約8500字)
ふたつ、はてブエントリとは言えかなり論文チックな考察になっています。
みっつ、当たり前ですが「少年たち Jail in the sky」におけるネタバレを含みます。まだ見てないよ!見るんだから黙ってろ!という人は回れ右してください。

それでもよろしければ、どうぞお付き合いください。

(※自分の手元にある円盤ではないため、一度通して円盤を見ただけです。それ故セリフ等誤植や勘違いがあるかもしれません。ですが、ニュアンスとして齟齬が生まれないように気を付けて書いたつもりです。何かありましたらお気軽にご指摘ください)


まず、わたしがこの作品に触れようと思ったきっかけから話そうと思う。

「少年たち」という舞台を、ジュニアを中心に毎年やっているということは知っていた。知ってはいたが、その中身まで覗いて見ようとはしていなかった。
この時点でわたしの中にあった「少年たち」のイメージは「ジャニーズジュニアの子たちが毎年やるくらいなのだから、きっとキラキラしたステージングの舞台なのだろう」であり、偏見とまでは言わないが、それに近いものがあったことは表記しておきたい。

そんなとき友人の白ちゃんが「少年たち」について呟いているのをみて「おっ」と思った。彼女の呟きを読んだところ、どうもわたしがイメージしていた「キラキラした舞台」は、見当違いの予想であることは明確に分かり、すぐに「少年たち」について調べ始めた。
天井桟敷、寺山修二、萩原朔美。この単語に出くわした時、「あ、わたしはこの舞台を見なくてはいけない」と直感で感じた。

そう感じたと共に「なぜジャニーズというキラキラしたアイドル集団に天井桟敷が?」という疑問を抱いた。もう何年も自分がいる界隈に存在する文化と、まったく真逆の場所にいるジャニーズが、どうして「少年たち」で出くわしているのか。日陰と日向がどうして同じ場所にあるのか。大きな疑問だったのだ。

ざっくりとしたあらすじと、初回公演となったフォーリーブス主演の「少年たち―小さな抵抗―」に関するはてブのエントリ記事

 

sasagimame.hatenablog.com

 

を読ませていただき、自分が舞台を見る時にどこに注目したいのかをある程度しぼってから円盤を見せてもらおうと決めた。

勿論初見の舞台映像なのでかな~りゆるい注目点でしかなく、別にここに表記するほどでもないが、

 

①作中における登場人物の在り方
②物語のテーマ性
③ジャニーズという日向の存在によって演じられる日陰の世界

 

辺りに目星をつけた。正直①と②は何を見る時でも前提に置いているので、特別変わったことではないが一応。

一番の目的は「日向と日陰」という感覚世界を自分がどう感じるのか、というところであった。

 

見せてもらったのは「少年たち Jail in the sky(2012年)」

A.B.C-Zと現在のジャニーズWEST(※当時はデビュー前だが、このエントリを書く上では便宜上ジャニーズWESTと表記させていただきたい)が主演グループのものだった。
先にひとつ書かせてもらうとするならば、度肝を抜かれたということだろうか。

わたしが、というか世間一般の中にあるジャニーズ像を根底から覆されるような、こんな暗い舞台をまだまだ若いジャニーズの子たちにやらせてもいいのか?!というものが真っ先に来たことは最初に書いておきたい。
少年院内における友情、平和、夢をテーマにしたエンターテイメントショー(※某ペディア)だと?そんな生ぬるいものではない。たとえそれがどの年代の作品に共通している要素だとしても、この舞台における中枢部はもっと別のところにあるのではないだろうか。

事前に調べていたあらすじで、少年院での話ということまでは掴んでいたが、舞台を一本見た後に感じたテーマは三つ。

この三本柱を中心に考察を進め、最終的にまとめていきたいと思う。

 

 

 

  「正義と悪」

 
A.B.C-ZとジャニーズWEST(囚人組)それぞれの捕まった理由を整理したときに

A.B.C-Z
戸塚→自分をいじめていた奴を刺す
橋本→公務執行妨害(元暴走族の頭)
河合→業務上過失致死(漫才中に相方につっこみを入れたら死んでしまった。脳震盪か何か?)
五関→暴力を振るう父親を刺殺
塚田→空き巣

ジャニーズWEST
重岡→いじめ主犯格に対する復讐の為に放火をした弟の身代わり
桐山→バイク事故で死んだ親友の仇打ち
神山→夢を認めてもらえない父親との確執から家出をし、サラリーマンを半殺し(財布でも奪うためだったのか?それともただの鬱憤晴らしか?)
中間→病気の妹を救うためにサラ金へ殴り込み(両親の話が出てこないので、両親が元々追われていたのか、窃盗目的なのか)
藤井→マツタケ泥棒(友人が起こしたヤクザとの事故の示談金を稼ぐ為)

となっている。

やはり出演者が関西ジュニアということもあり、河合・藤井の逮捕理由が語られる際はコント調になっており、舞台全体で見たときにお笑い要素の強い休息ポイントである。
しかしここで注目したいところは、「どうして罪を犯したのか」という点だ。

A.B.C-Zが「自分の為・自分の管轄内の犯罪」であるのに対して、ジャニーズWESTは「大切な誰かの為の犯罪」であることが特徴だ。チームカラーが赤(A.B.C-Z)と青(ジャニーズWEST)に分かれているのも、余計に「自分の為」か「他者の為」という印象付けに働きかけたようにも思える。

(※五関に関しては、母親への暴力は日常的に見ていたがあくまで暴力を振るわれた瞬間に刺したので「自分の為」とする。また、父親を刺殺した際の母親の反応を考慮し、刺殺行為が本当に望まれていたものなのかは謎とする)
(※神山に関しては、「他者の為」ではないと捉える)

橋本・塚田・神山に代表するような法律に反した単純な悪による犯罪行為に対して、戸塚・五関(・重岡弟)に見られる特徴は「純粋な正義で裁くことの出来ない悪を更なる悪で征する」という『正義と悪』の構造が見える。どうにも出来なかった悪を悪で征した結果として少年院に入ったものの、少年院の中に存在する別の『正義と悪』に捻じ伏せられる構図がこの後登場するのも重要だ。

少年院内における法律とも言える濱田の存在は、果たして「正義」なのか「悪」なのか。
一見してみれば、娑婆でルール違反をした(=悪)囚人たちを囲い込む施設の管理人に当たる訳だから、囚人たちを「悪」と捉えるなら逆説的に濱田の存在は「正義」となるはずである。
しかしながらこの作品を見た人が濱田を正義の存在として認識することはないだろう。

なぜならば、濱田の行き過ぎた正義は最早「悪」でしかないからだ。
娑婆で罪を犯すことがイコールで「悪」となり裁かれる、ここまでは話を進めていく上で大前提の定義となる。

しかしながら少年院に入り更生と出所を目指す囚人たちの現状は「悪」ではない。それを征する濱田の「正義」は、「正義であるという世論の皮を被った悪にすぎない」と言えるだろう。絶対的な「正義」の立場の人間が極めて利己的な権力を振るった時、それは「正義」ではなくなる。
この構図こそ、看守長という絶対正義の存在にして絶対悪となった濱田の存在になるのである。

無論、それは最初の方の場面で「人間やと思うな」と言い放った台詞の端々に出ているだろう。更にラストシーンでは濱田の「悪」は加速し、囚人たちを自分の玩具にするための刑期延長に繋がる陰謀や、懲罰房での折檻に表れている。
絶対的正義の立場からあれこれ物を言うのは気持ちがいいし、絶対的正義の力を使って法律で裁かれた悪を自分の好きなように制圧するのはさぞ心地よかったであろう。
そんな感情が看守長濱田の「悪」を加速させた原因のひとつではないのかとわたしは考える。

つまりこの「正義と悪」を定義すると、「正義」とはどの人物から見た時もあくまで利己的な価値観における正しい判断であり、「悪」とは法律上裁かれるべき犯罪、並びに、行き過ぎた「正義」とする。

 

 

  「善と悪」


この作品内における「善」とは何か。戸塚の存在そのものである。

戸塚の逮捕理由は自分をいじめていた人間を刺したことによるものだが、その後の少年院内の生活においてはたして戸塚が誰かに害悪を与えたりする「悪」である瞬間がたった一度でもあっただろうか。
そもそもいじめられていた原因も、おそらく彼の役の特徴としてみられるアスペルガー症候群的な要素(これは完全な憶測なので、劇中で語られることはない)が原因であったのではないかと思われるので、最初から戸塚の存在すべてにおいて「悪」といったものは存在しないのではないかと考えられる。

ブランコの順番を河合に指導されたときも、ベンチに座ることの可否について塚田に指導された時も、桐山にご飯の一部を奪われ牛乳を押し付けられた時も、戸塚の返答はほぼすべてにおいて「ありがとうございます」で構成されている。反抗も抵抗も攻撃も存在しない。権力を振りかざすこともなければ、「正義と悪が云々」と語られることもない。
全てを受け入れ全てを肯定し、更には不特定多数ではない他人の為に脱獄を提案した後に自らが犠牲になる。「顔も知らない名前も分からない不特定多数の為」の自己犠牲と「特定の誰かの為」の自己犠牲の概念は全く以て別物である。後者の方が純度の高い「善」ではないだろうか。

更にこのテーマを持ち出した時、もう一人「善」の人物が浮き上がってくる。それが小瀧演じる新人看守だ。

最初こそ濱田に従って看守の立場を守っていた小瀧だが、話が進むにつれて徐々に濱田に対して疑念を抱くようになる。濱田のやっていることは正しいのか、それに従うことが正しいことなのか、少年院内において「正義」の立場を使って「悪」を制圧することが正しいことなのか。

大前提として掲げられていた、罪を悪とする図式に間違いはない。ではそれ以降の現状に疑問を抱いたのはほかに誰がいただろう。濱田の金魚の糞と化した安井(謙太郎)に見られるように、濱田の部下は全員濱田と同じ存在として考えるべきなのだが、たった一人だけ異色の存在として頭角を現すのが小瀧なのだ。折檻を迷ったり、濱田による刑期延長計画に疑問の声を挙げたりと、偏った「正義」を振りかざすことのない「善」として描かれている。

また、小瀧が看守を辞めると言い出す場面は「正義」の皮をかぶった「悪」に対する嫌悪感から来るものであると考えられるが、これ以上の看守による自己満足的な折檻を続けることに対しての罪悪感もあったのではないだろうか。

勿論、この「善と悪」というテーマにおいて比較対象となる「悪」は、少年院内における法律に守られた絶対的正義の存在、濱田を始めとする看守達のことである。

つまり「善と悪」を定義すると、「善」とはあくまで利己的ではない正しい行い、特定の誰かの為の自己犠牲的な概念となる。
(※この定義によって、重岡も「善」の存在にかなり近しいものになる)

このふたつの考察を並べてみると、わたしたちが普段生活している中で見聞きし感じる「正義と悪」と「善と悪」という、一見同じように見えるものも、この作品内においては一切別物として描かれていることが分かってもらえるだろう。

(※「悪」についてはニアイコール的な存在とする)


ではなぜ、看守長濱田の存在が「悪」と感じるように描かれているのか?
この構図の理由は「世の中の正義を振りかざしてくる不条理」の象徴ではないかと考えられる。法律で裁かれるべき罪を犯した彼らではあるが、そもそもなぜ罪を犯したのか、犯さねばならなかったのか。

世間一般(=正義の皮を被った悪)による加害行為(=イジメ等)に抵抗する為には、悪(=イジメ)を征する為の更なる悪(=イジメに対する制圧)が必要だった訳であるが、その結果少年院に入った彼らを待ち受けている構図は、皮肉なことに全く同じものである。それが以下だ。

看守長(=正義の皮を被った悪)による加害行為(=折檻等)に抵抗する為には、悪(=懲罰行為、無意味に延長される刑期)を征する為の更なる悪(=脱獄計画)が必要だったといえるだろう。

世間のはみ出し者となり少年院という特殊な場所に閉じ込められた少年たちではあるが、格子の中も格子の外も、世間と自分たちとの対立構図は似たようなものだ。この「少年院」という閉塞的な場所は、一見世間の不条理から叩き出された面だけを表現しているように見えるが、叩き出された外でも、少年たちは結局また不条理に苦しむのである。

 

 

  「生と死」

 

ある種青春群像劇的ともいえる「少年たち」ではあるが、このテーマを抜きにして話をすることは出来ないと思う。

それは、河合、五関(殺人)・神山、戸塚(殺人未遂)(・桐山(親友の死に対する報復))と、それぞれが少年院に入るきっかけになってしまった理由にいずれも「死」の存在を無視することができないからだ。
中間の妹もいつ死んでしまうか分からない危うい存在として描かれており、少年院の中に居る限りは全員が過剰な折檻による「死」の恐怖にさらされていることも挙げられる。

ここで全員が「死」への恐怖をどこかで抱えている一方、世間で受け入れてもらえることのなかった戸塚だけが「生」の喜びを感じているその違和感についてもここで一言触れておきたい。
はっきり言って、この環境下で前向きな「生」を捉えられる時点で他者との感覚が大きく異なっていることは言うまでもない。俯瞰で「少年たち」を見るこちらとしては、圧倒的な違和感そのものでしかないのだ。

しかし観客に最もインパクトを与えた「死」は、言うまでもない戸塚の死だ。脱獄計画も終盤、さああと一歩で全員脱獄できる、娑婆に戻れる!
そんな希望に満ち溢れた、今まで鬱屈としていた閉塞的な空間にやっと見えた大きな希望の光。少年たちも観客も目を輝かせたその瞬間に奪われるひとつの生命。希望によって際立った絶望感の遣る瀬無さが、この場面における悲しみを更に引き立たせると言っても過言ではないだろう。

果たして、戸塚の「死」は本当に誰かに生命を略奪されたものなのだろうか。
少年院の中で少年たちと過ごす更生生活に希望を見出していた戸塚が脱獄を計画したことが、結果として戸塚にとっての幸せであったかは疑問だ。塀の上に立つ場面でも「僕はここに残るよ」と言葉を残している。たとえその塀の中に一人で残ったとしても、彼が更生生活の中で築き上げた幸福は指の隙間から零れ落ちていくというのに。一人で残ったとて、今まで手にしていた幸福が残らないことは戸塚も解っていたはずだ。

それでも戸塚が脱獄計画を企てた理由はひとつしかない。「みんなが幸せになれるなら」。名前も顔も知らない誰かの役に立ちたいなどどいったものではなく、明確な誰かの為という自己犠牲による彼の行動が、彼の考えそのものなのだろう。

自分を受け入れてくれなかった外界に戻ることへの不安もあったかもしれない、咄嗟の判断で自分が犠牲にならなければ大切な仲間たちが脱獄に失敗してしまったかもしれない、もしかしたら、自分を初めて受け入れてくれた人たちと離れ離れになるくらいなら大事なこの場所で散ってしまいたいと思ったのかもしれない。戸塚の「死」においては、きっと明確なたったひとつの理由で話をまとめることは出来ないだろう。


では、いくつも挙げられた「死」に対しての考察と比較したとき、列挙できる「生」の話があるかどうかについてだ。
全体を通して見たときに、「生」のポイントは二つ存在すると考えられる。

一つ目は、少年院内において戸塚を通して見る人間関係の構築模様だ。
絶望の巣窟と思われた少年院の中で、戸塚は初めて「生きていることの楽しさ」を感じる。こうやって説明するとあまりに簡潔すぎるこの感覚ではあるが、この舞台における主人公ともとれる戸塚のこの感想こそ、「生」に対しての前向きな感情そのものでしかない。

二つ目は、脱獄してから少年院に全員が戻り、その後出所する場面だ。今までの場面演出で使われなかったような明るいライティングに象徴されるように、この場面はこれから描かれる未来への希望に満ち溢れている。
出所する少年たちと入れ替わりで入ってくる新たな「少年たち」はまさに絶望そのものだが、この場面の舞台上で「少年たち」は、希望と絶望が比較されるように置かれるのである。
ではどちらが明るいか、目立つか。言うまでもない、出所する少年たちだ。光は影を以てして光り輝き、影は光を以てして鬱屈さを増す。どうにも動かしようのないこの関係性で今際立つのは、光だ。「生」への希望だ。


しかしながらこの舞台において「生と死」のテーマ性は非常に重いものだと思うのだが、どう考えても比重が均等ではない。幕が切って落とされた時点から随分長い時間、わたしたち観客は「死」の絶望感の中に引きずり込まれて閉じ込められてしまうのだ。休憩時間かと思われた明るい河合と桐山のコントシーンですらも、最後に待っているのは相方の「死」である。あの場面における唐突な凍り付き方は不気味そのものだ。
なぜこの舞台はこんなにも暗いのか、絶望を孕んでいるのか、悲しみを湛えているのか。それはこの舞台上に圧倒的なまでに存在する「死」のイメージによるものだろう。

 

 

  まとめ

 

ここでリマインド的に、最初に掲げた三つの観点をもう一度並べる。

 

①作中における登場人物の在り方
②物語のテーマ性
③ジャニーズという日向の存在によって演じられる日陰の世界

 

この考察を書き始めたところで掲げた三つの疑問点の内①と②においては、わたしの出来る範囲で考察をした(とは言い切りたくはないが)と思う。では最後に、ほぼ感想のようなものだが書いておきたい、「ジャニーズという日向の存在によって演じられる日陰の世界」についてである。

「正義と悪」「善と悪」「生と死」と、三つのテーマを並べて考察をしてきたが、やはり最後に残る感想は「なぜジャニーズがこんなに暗い舞台を」という、なんとも遣る瀬無い気持ちである。

正直この舞台を(円盤とはいえ)一本見終わる頃には、わたしの気持ちはすっかり疲弊しきっていた。まだデビューしたて、もしくはデビューすらしていない若いジュニアを中心とした舞台にしては、あまりに暗く、遣る瀬無く、悲しすぎる。よくあんな若い齢でこんなに重い舞台を演じ切れるものだと感心した。
ましてやこの舞台は、普段うちわやペンライトを自分たちに向かって振られ、手の一つでもあげれば黄色い悲鳴が上がるようなアイドルがやるにはあまりにも馴染のないアンダーグラウンドな舞台だ(ここについてはわたしが言うまでもない、「少年たち」初回公演において天井桟敷が関係者名としてあがっている時点でお察しだ)。

こればかりはわたし自身における個人的な感覚の話になってしまうので何とも言えないが、これをアイドルが演じ、普段黄色い声で応援する若い女の子たちが観劇に行き、「かっこよかったね」と、それで終わってしまっていい舞台なのだろうか。これが「日向の存在によって演じられる日陰の世界」を見終わったあとの率直なわたしの感想だ。

はっきり言う。勿体ない。非常に勿体ない。


ジャニーズの舞台故に生で観劇に行くことはなかなか難しいことはわかっている(特に今年はSnow ManとSixTONESの共演だし)。しかしこの舞台はもっと沢山の人の目に触れて欲しい舞台であるし、ただ「かっこよかったね」で終わらせてしまっていい舞台でもない。と、私は思う。
事実、ジャニーズやジュニアに興味がない友人に、この舞台の中身と自分のほんの少しばかりの考察を添えて話をしたところ、百発百中で「見てみたい」「なぜそんなアングラなテーマの舞台をジャニーズが」との返事を頂いている。ジャニーズだから、ジュニアだから。そんな理由で遠くに置かれる作品であっていいのだろうか。いや、絶対に良くない。

(※この考察を書くにあたって、ジャニー喜多川氏が事務所を立ち上げたきっかけなども読んだ。どうして彼が今でもこの作品の演出、ひいては他の舞台作品において演出を担当するかがわかる気がする。それだけ舞台に対する思いの強い人なんだと感じた)


頭の固い、非常に論文チックなエントリになってしまったことは重々承知である。それでもわたしが訴えたいことはひとつ。

この「少年たち」という舞台作品が、もっと多くの人の目に触れて欲しいということ。それだけだ。



いいから「少年たち」を見ろ!!!!話はそれからだ!!!!!!!!!

 

かすみ(Twitter→@mist_storm_1723)