今宵逢う人みな美しき

綺麗なモブになりたいジャニオタの独り言

「担当の顔に泥を塗る」という生き恥

 

わたしはアイドルが好きだ。

特に好きなのは嵐、Sexy Zone、そして最近ここにSixTONESというジャニーズJr.のグループも併記するようになった。人気・実力・経歴の文字が揃うベテラン、まだまだこれからの伸びしろが楽しみな若手に、今後きちんと日の目を見ることが出来るかも分からないジュニアグループ。満遍なく楽しんでいて、満遍なく応援しているというのが現状で、よっぽどのことがない限りはこれからもしばらくこの状況が続くと思う。

それぞれのグループに「担当」と呼ばれる、特別に推しているメンバーもいるし(※先日の記事にも書いたように、北斗くんに関してはまだ担当か推しかは微妙なところ)、彼らがリリースするCDや雑誌は購入するし、出演するテレビやドラマや映画はチェックして見るし、タイミングが合ってチケットが当たればコンサートにも行く。ジャニオタ御用達ジャニーズショップで写真も買う。これは鬼のように買う。あそこは魔界。

公式にお金を落とすのは勿論のこと、それを起点として広がる友人関係も存在するし、わたしは考察厨なので、観に行った舞台や彼らが作品としてリリースする歌の歌詞についても考察して、それでブログなんかも書いている。今書いているこのエントリもその一部。

自分が考察した中身をどこかに文にして残しておきたい、誰かにこの話を読んでほしい、そんな気持ちから始めたブログだったが、今はそこに "文章を書くことでストレスを発散している要素" も混じりつつある。困ったことに、時々こうして酔っ払いが管を巻くように長い文章を書かないと、わたしはストレスでおかしくなってしまうみたいだ。

そして今回もまた、これを書き始めたきっかけは「ストレス」以外の何物でもない。

 

わたしはアイドルが好きだと、先述した。

それは元を正せば現在からの結果論でしかない上に、万人にわたしの嗜好をお伝えする際に最も伝わりやすく語弊がなく、分かりやすいものを選んでいるだけに過ぎない。

長年の友人に「最近どう?」と聞かれたときに「最近?ずっとジャニーズ見てるよ」というと、大体最初は怪訝な顔をされる。世の中の人間は「ジャニーズが好きだと言い切る人間」に大抵偏見を持っている。それは過去の自分にも当てはまることなので概ね間違いはないと思うし、仕方のないことだと思う。

でも「どうして好きなのか」を説明すると、大体の人はきちんと理解してくれるし、運が良ければ「機会があればぜひ見てみたい」とまで言ってくれる。波風立てずに話題をある程度終結させる為のリップサービスのものも含まれているだろうという諦観もややあるが、本当に興味を持ってくれて曲を聴いてくれたり、わたしが好きだと言ったグループについてネットで自主的に色々調べてくれる友人もいた。とてもありがたい話だ。

わたしはラッキーな方だと思う。たまたまわたしの周りの友人たちに理解があって、こうして最早DDとも成り果てたジャニオタであるわたしの話を、みんな「うんうん」と聞いてくれる。まぁ最近は「推しは尊い」という、ジャンルの垣根を越えてオタクが心に抱える共通概念が世間一般に浸透してきた御陰もあってか、(わたしの友人は)他人の推しに関してとても寛容だ。互いが互いに推しの話をして、聞きあって、推しがいると人生楽しいねぇなどと茶をしばきながら穏やかに語り合うこともできる。

 

でもこの世の中には、どう話をしても「ジャニーズでしょ(笑)」「アイドルでしょ(笑)」と鼻で笑って、意地でも偏見を捨てようとしない人達も存在する。わたし個人の性格を前提においた場合、そういう人はこの世界に存在しないものとして扱うようにしているが、まぁまぁそうもいかないときもある。

自分自身が下す判断について「これは偏見だ」だという自覚がある場合はまだいい。

わたしだって何事に於いても先入観や偏見に左右された判断は下さないよう日々気を付けて生きてはいるが、どうにも生理的に受け付けられないものや理解共感に苦しむものに対して「偏見」を持っているという自覚はある。でもそれはわたし自身が持つ「偏見」でしかない訳だから、自分対自分で対話する際に持ち出すのは大いに有りだが、それを剣にして不特定多数を傷付けることは決して正しいこととは言えない。ましてや、わたしが「偏見」を持つものを「好きだ」と煌々とした瞳で語る人に出会った時、わざわざその人の話の出鼻を挫いてまで「わたしそれ嫌いだから(笑)」と告げる必要性もなければ、馬鹿にする資格もない。対自分か、自分と同じようにそれを好まない人と「どうにも好きにはなれないね」「わたしはこういうところがこういう理由で嫌いで」という話をすればいいだけだ。

世の中の偏見を忌み嫌う人たちの大半が、偏見に偏見で対抗している自覚を持たない。偏見とはとても厄介なものだ。

 

少し話が逸れてしまった。

今回話をしたいのは、その "偏見の出所" にも関する話だ。

 

 

どのグループのファンにも厄介なのは沢山いる。かつてのわたしがジャニーズを嫌っていたのも、そもそもそういうファンが目立っていたからだと言ってもいい。

その厄介な例を挙げればキリがないが、ネットでたまに写真が回ってくる自担(もしくは自担グループ)崇拝系のファンの様子なんかは、当時中高生だったわたしにとって「気持ち悪い」以外の何物でもなかったし、それに関しては今も変わっていない。あの様子は、自分達が楽しければそれでオッケーという心理丸写しの写真でしかないし、ああいう行為を公共の場ですることの意味や影響を何にも考えていないのだろうなと思う度に反吐が出る。

最近ならTwitterの公式へのリプライなんかもその対象かと思う。所詮SNSと言っても、自分だけが呟くTLと、公式アカウントへのリプライでは訳が違う。多くの人が目にする公式アカウントに沢山のリプライがついていれば、それも自然と沢山の人の目に晒されることになる。自分一人が公式アカウントに向かってたった一言物申した、では済まされない問題であると思う。その "たった一言" が、どれだけの人の目に晒されるのかを考えたことがあるのだろうか。

まぁそんなこと考えてないからリプライ出来るんだろうなと思う。

 

それから最近、個人的にすごく気になることがある。

中高生の間に自分がオタクとして住んでいた界隈が二次元だったので、自分も所謂二次創作といった存在に触れて育ってきた。公式が黙認してくれていたからこそ出来たことであったので、ネット上での検索除けなんかはHPを立ち上げる際に重要な必須項目であったし、サイトの入り口や作品閲覧の際に独自のパスワードを設けることも常識の内だった。イラストなんかは、ファンアートと、二次創作としてまだ表に出しても大丈夫なものと、少なくともその作品を愛する「普通のファン」の目に触れてはいけないものの区別はつけなくてはいけなかったし、それは当たり前のことだった。
でもジャニーズの界隈にいて思うのは、その辺の分別がとにかくゆるい。ゆるいにも程があるレベルでゆるい。どう考えてもアウト中のアウトのものを普通にツイッターでタグなんかを付けてあげているのを見るとドン引きする。

コンビ厨やシンメ厨も、見方や愛し方や発言によっては完全にソレの内になってしまうと思っている人間なので、その辺の分別に関してはもう少し考えるべきところがあるのではないかな、と思う。最後にも我慢できずに書いているが、ラジオネームの一件なんかがそう。「好きだから」という言葉はいつだって免罪符になんかならない。その自覚のなさ故の行動に、気になることが多すぎるのだ。

 

悲しいことに、質の悪いファンというのは目立つ。そのアイドルがどれだけ沢山の素敵なファンを抱えていたとしても、その中の極一部の立ち振る舞いが目に余るものであった時、人は自然とそれを認識してしまう。ああいう変なファンが多いんだなぁ、と。

本当はそんなことはないのだ。100人のファンがいたとしたら、多分その内の一桁程度しか変な人はいない。もっと言うと100人の内の20人くらいはなんとなくの予感だけどあまり仲良くなりたくはないタイプで、30人くらいは価値観が違うので近寄らない方がお互いの為なタイプで、残りの45人くらいはいい人で案外仲良く出来たりするものである。少なくともわたしの場合はこんな感じだ。

わたしは割と心が狭い方なのだが、そんなわたしでも「これだけ沢山素敵なファンがいるよ」と言い切ることが出来る。それなのに、世間一般の人たちはわたしが「ジャニーズが好き」という話をすると、一瞬怪訝な顔をするのだ。あんな変な人たちと同じように応援しているの?という顔をするし、実際に冗談口調でそう言われたこともある。

どうしてか?それは質の悪いファンが目立った行動をとったことで、世間に「ジャニーズのファンは変な人が多い」と認識されているからだ。

 

非常に腹立たしい。

感情のままにハッキリ言うと、マジでムカつく。お前らみたいなクソファンがいるからわたしの好きな人が無意味に叩かれるんだろうが、と、度々頭に血が上ることもある。

今後何回でも言うがわたしは心が非常に狭い。なのでそういうクソファンのことは、とてもじゃないが許せるものではない。ふざけないでほしい。わたしが好きな人の名前を挙げた時に怪訝な顔をされる理由を「自分が作ってしまった」という自覚を持ってくれ、という話である。これを端的に言うと、タイトルにもある「担当の顔に泥を塗る」ようなことをしてくれるなよ、ということになる。

これは自分勝手な話だろうか。わたしはそうは思わない。

 

 

近いところの話で言うと、今度自担が主演を務める運びとなっているドラマの主題歌に関する一悶着が挙げられる。

 

有難いことに嵐には沢山演技のお仕事がある。現在も二宮くんが主演を務めるドラマ、映画がそれぞれ一本ずつ、翔くんにも近々公開予定の映画が一本控えている。もしかしたら別のメンバーにも現在進行形で演技のお仕事の話は来ていて、これからその情報が公開されたりするかもしれない。

そしてそれと同時にファンが期待するのは、ニューシングルのリリースがあるか否か、だ。今までも沢山の映像作品が作られる中で、嵐のメンバーが主役を演った上に、その作品の主題歌も担当してきたというケースも少なくはない。というかむしろ多い。

嵐のことを好きじゃなくても、細かいことまで沢山知らなくても、有名なシングルを聴けば「あの映画(ドラマ)の主題歌だったやつ?」と言ってくれる人は多いし、それきっかけで嵐のことを好きになった人もいるだろう。だから決して、出演した作品の主題歌を本人が所属するグループが担当することの全てを否定したいわけではない。

他の音楽家に任せるよりも、もっと作品に寄り添えるいい曲が主題歌として華を添える結果になることもある。今ぱっと思いつくものだと、ドラマ花より男子シリーズや99.9(Season1)なんかは特に良かったように思う。でもだからと言って、彼らが出演している作品全ての主題歌が彼らの曲だったら良かったかと問われたら、わたしの答えは間違いなくNOだ。

 

わたしはジャニオタである以前に、幼い頃から「作品」と呼ばれる類のものを鑑賞するのが好きだ。ジャンルは小説、文学、絵画、浮世絵、現代アート、写真、音楽など、広く浅く色んなものを齧ってきた。

「良いものは良い、ダメなものはダメ」。沢山の作品を鑑賞する中で絶対的な価値観になっていったのは、この一言に尽きると言ってもいい。それ以外にも沢山の感情や思考回路を辿ることは確かだが、結論から言うと最後に辿り着くのはこれしかない。

この価値観はジャニーズを好きになっても捨てることは出来なかった。だからわたしはどれだけ好きな人が沢山出ていても「作品」としての出来栄えがイマイチだったら素直に「イマイチだった」と言うし、クソみたいな「作品」に仕上がっていたら「クソすぎて無理」と言う。そこに自分の好き嫌いがどれくらい加味されるかも考えながら、好き嫌いだけで下す評価と、なるべくフラットに下した評価とを分けて提示しつつ、「作品」に向き合う。それが最低限の礼儀だ。

無論ものすごく良い作品だったら、それこそ誰にでも「これは本当に良い作品だから見てほしい、知ってほしい、聞いてほしい」と話す。これはわたしにとって極めて当たり前で自然のことであって、今更「(この人が出てるから)いい作品だった!ありがとうございます!」と言えるような人間にはなれない。というかその神経すら理解共感に苦しむ。「作品」に対する冒涜もいい所だ。

褒めそやすことの全てが正解ではない。「作品」として世の中に出回った以上、批評されて論じられて、初めてそこに「作品」に対する評価が存在するべきだ。何も考えずに称賛の拍手を送ることはむしろ、冒涜以外の何物でもない。

 

こんな考え方のオタクだから、どの作品においても彼らが無理して主題歌を担当する必要性はないとわたしは思う。

制作陣に「この作品には嵐が歌う歌が欲しい」「そうじゃなきゃ完成しない」と思われたときに彼らがそれに相応しい仕事をしてくれれば、それがベストだと思っている。だってそうやって仕事をしてきたことは、今までにきちんと評価されているのだから。

だからこそ今回の「どうして主題歌は嵐じゃないんですか?!」の公式への突撃は本当に信じられないし、同じ嵐のファンとして恥以外の言葉で表現することのできない怒りを抱えている。そうやって公式へ攻撃的なリプライをすることが、嵐の顔に泥を塗っている行為だということをどうして理解出来ないのか。ましてやそれを本人の顔アイコンにしている人ばかりが呟けば、それを外部の人が見た時にどう思うかなどすぐに想像が出来ないものか!

この一件が俄かに騒がしくなった時、だからジャニオタはバカばっかりって悪口言われるんだろうがと、正直わたしは悪態をついてやりたい気持ちでいっぱいだった。

 

自分の担当が「俳優として仕事をしてほしい」と呼ばれた作品できちんと仕事をやり遂げ、それがちゃんと評価され、「いい作品作りに関わることが出来たんだな」と嫌でも思わせられる仕事をしてきたのだとしたら、わたしはこれ以上ない幸せだと感じる。例えそこで主題歌を担当しなかったとて、彼がした仕事は彼が望む通り「嵐に還元される」のだから。

それをなんにも考えずに「主題歌は嵐がいい!」などとのたまってみろ。その行為自体が、担当の顔に泥を塗るだけの、オタクの欲にまみれた非常に自分勝手な行動だとは思わないのか。もしもそんなことを考えなかったり思わないのだとしたら、思慮が足りないとわたしは思う。

 

自分が好きなアイドルに仕事が沢山あるのは嬉しいことだ。

でも、何でもかんでも彼らがやればいいのかと言われたら、それは違う。人にも物にも、適材適所という言葉がある。

 

 

オタクは欲深い生き物だ。だからこそ、自分の中に沸き出でる欲望が外に吐き出されてもいいものか、他人の目に触れてもいいものか、大声で求めてもいいものか、常に慎重に見極める必要性がある。

 

誰かのファンを名乗るということは、その人の顔を担うということ。わたし達ファンが誰かのファンである事実を掲げながら何かを発言するとき、世の中の人達はわたし達と彼らをイコールで繋げて見る。果たしてわたし達はそのことをきちんと認識しているのだろうか。意識しているのだろうか。自覚しているのだろうか。

 

わたしがオタクとして一番やりたくないことは、「担当の顔に泥を塗ること」だ。

わたし一人の行動が二宮くんや風磨くん、そして北斗くんの顔に泥を塗るようなことがもしもあったなら、わたしは彼らに顔向けできない。

いつだって胸を張っていたい。胸を張って「わたしは二宮くんが好きです」と、「わたしは風磨くんが好きです」と、「わたしは北斗くんが好きです」と、誰にでも堂々と言えるファンでいたい。わたし一人がその発言をすることによって、彼らにマイナスイメージが付き纏うことがないような一人のファンでいたいのだ。

 

わたしがこのブログの紹介文に「綺麗なモブになりたい」という文言を入れているのも、「担当の顔に泥を塗ること」をしたくない一心でしかない。身なりを整えない汚らしい女が彼らのファンなんだと、死んでも思われたくはない。あと万が一彼らの視界に入ったときに間違っても不愉快な思いだけはさせたくない。

出来れば「二宮くんのファンには綺麗な子がいるなあ」とか、「風磨くん好きな子って綺麗な子が多いよね」とか、「北斗くんのファンは綺麗な女の子がいるよね」と思われたい。本人たちにも「俺のファンって綺麗な子が多いんだよな」と思っていてほしい。それは決して顔の美醜の話ではなく、清潔感があってお洒落で外見も内面も素敵な女性でいることであり、わたしは常日頃からそれを目標にしている。見た目の美は内側から溢れいづるもの。

 

どんな時も正解を見極めていたい。刻一刻変化し続ける正解を、なるべく遠ざけたくはない。

その感覚を失ったとき、わたしはきっと欲深く醜いオタクに成り下がり、「担当の顔に泥を塗ること」をしてしまうだろうから。

 

 

わたしはアイドルが好きだ。

キラキラと輝き、時に目が眩むほど眩しく、時に泥臭く粘り、時に儚く、時に身近で、そして遠く遠く手で触れることの出来ない場所に立つ存在であるアイドルが。

今日も好きだ。明日も好きだ。明後日も好きでいる。だからこそ、彼らの顔に泥を塗ることだけはしたくないし、しない。間違って彼らの評判を下げそうになってしまったとき、まずいと思って踏みとどまれる人間でいたい。いつだって彼らの背中に向かって、正々堂々好きだという気持ちを追い風にして送り続けられるファンでありたい。

それがわたしが思う、正しいファンの在り方だと思うから。

 

 

長くなりましたが、最後に二宮くんを応援する者として一言。

ベイストに変なラジオネームでメールを送るクソオタクども、いい加減自重しろ。生き恥を晒すな。二宮くんのみならず相葉くんの顔にまで汚い泥を塗りたくるんじゃない。

 

 

かすみ(@mist_storm_1723)